TEA FOR ONE

まぁお茶でも飲みながら気ままに、好きなことを、すこ~しネタバレしながら、のんびりと………。

彷徨う名美ふたたび★「人が人を愛することのどうしようもなさ」

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(C)東映ビデオ

 今回の新作『人が人を愛することのどうしようもなさ』では、二重三重に丁寧に織り込まれたストーリーが、表層だけでも十分にサスペンス・ノワールに仕上がっているが、劇画時代からの熱心なファンには、もっと深いところに隠された黙示を汲み取ることができるという。
 それをもう一度確認するために、今週ふたたび映画館へ足を運んでみた。

 前回はストーリーに触れなかったので、今回は新たなレヴューとして簡単に物語を述べながら進めていく。

 ★以下、ネタバレや結末等に触れます。

  ☆     ☆

 映画館は定員70人 ほどの小さなところだったが、はじめに観に行ったときも2度目の今回も、そのほとんどが中年の男性客の中にあって、一割ほどの女性客がいたことには嬉しい思いをした。この作品、思い切って言ってしまえば、女性に観てもらいたい映画だ。たしかに、その過激な性描写に驚愕するかもしれないが、本質的なところで“愛”を描いた作品だと感じるはずだ。

 元アイドルで人気女優として活躍する名美だが、私生活では15歳年上の夫洋介(永島敏行)との破局が目に見えていた。洋介もかつては栄華を極めた人気俳優だったが、下り坂になった現在は若い女優との情事に耽る荒んだ生活をし、そんな環境に名美自身も心身ともに追いつめられている。
 そんな名美の新作映画『レフトアローン』は、夫洋介と愛人の女優との共演というスキャンダル性を狙ったもので、名美が扮する鏡子という愛に絶望した女優が、自ら下品な化粧をほどこし、街角に立ち男に躰を捧げる日々を送るといった内容の作品。
 映画ジャーナリスト(竹中直人)のインタビューを受けながら作品を語るかたちで本作は進んでいくのだが、ここにまた『愛の行方』と『ブラックバード』という『レフトアローン』の劇中劇が入り子状態で織り込まれ、名美の現実と虚構の橋渡りがつづいていくことになる。

 真実なのか妄想なのか、映画はひとつのサスペンスを創り出していくのだが、もう片方にある愛の物語が女性向けだと述べた要素として、名美であれ鏡子であれ、愛する人への狂おしい想いが叶わないときに陥る危うさが、心を揺さぶってくるだろう。
 街で男たちに声をかけ、どんなに如何わしい行為に陥っても、どんなに男を貪っても、決して満足することができないのは、名美がどんなに蔑まれようが愛して止まない人がただひとりいるからだ。
 劇画でも映画でも、名美はいつも純粋だ。強姦されても、気が狂っても、名美が待ちつづけるものは、その先にある愛だろう。そんな“どうしようもない”心の底から愛する感情があるからこそ、ぼくは、名美の自虐性と孤独に惹かれる。
 
 マネージャーの岡野(津田寛治)の言葉として出てくる「人が人を愛することのどうしようもなさ」。スキャンダルの対策に奔走する岡野は、名美(鏡子)の街娼の後始末にも「君はやっちゃいけない人だよ」と己自身を犠牲にする。ここにもうひとり、叶わぬ想いを抱く無償の愛の姿がある。

  ☆     ☆

 劇画時代から、石井隆氏が描く名美が唯一無二の「女優」であり、ぼくらは劇画のなかで名美が演じる数々の女性たちを見てきたわけだが、とりわけ刹那的であったり感傷的であったりしながら、常にひとりの女性が過去に背負って来た生き様を繰り返し物語のなかに見てきた。
 そうしたなか、過去と現在の繰り返しが多様される石井隆の世界は、劇画でも映画でも同じように、それがいつのまにか、耽美な夢と虚構の迷宮へと繋がっていくことになる。
 石井隆氏の作品を語るとき、とりわけ名美を語るときには必ずそこには“死”が見え隠れする。過去と現在の繰り返しは、或は、虚構と現実を行き来すると云うことは、名美が“死に場所”を求め彼岸を彷徨っていることになる。

 虚構性が行き着くラストは、娯楽映画の結末としては筋が通っているし、愛する夫を殺めたベッドの端に佇む名美の姿は“人が人を愛することのどうしようもなさ”として納得のいくものである。
 名美と鏡子の入れ替えにもなる劇中劇『愛の行方』の、クライマックスに引用された1992年の劇画『主婦の一日』(カンタレッタの:第九匣)では、稲妻とともに消える名美の姿のあと、開け放たれたベランダの窓から一陣の風が吹き込む画で終わるのだが、さて、映画での名美の行き着く先は何処なのか。名美に対する石井監督のおとしまえはどこに落ち着くのか。

 洋介と愛人が血まみれになって横たわるベッドで、そこに腰掛ける名美にルージュをひく岡野。
 石井監督の言葉によるとこのシーンは、名美のvagina【唇】と岡野のpenis【口紅】をイメージしたエロティックな場面なのだが、同時にこれは死化粧と言えなくもない。
 石井隆の世界を読み解くにあたり、先に述べたように名美が“死に場所”を求めているとするのなら、ラスト・シークエンスの舞散る紙片とともに名美の躰を照らすライトは、魂を救うために化仏となった名美の光背だろうか。

 だからぼくは、フェイド・アウトした暗闇のなかを彷徨う名美の魂に、また会いたくなる。


☆人が人を愛することのどうしようもなさ☆


 


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