「ミュンヘン」
MUNICH
監督:スティーヴン・スティルバーグ
脚本:トニー・クシュナー、エリック・ロス
音楽:ジョン・ウィリアムズ
主演:エリック・バナ、ダニエル・クレイグ、キアラン・ハインズ、マチュー・カソヴィッツ、ミシェル・ロンズデール、マシュー・アマリック、ジェフリー・ラッシュ
☆☆☆☆ 2005年/アメリカ/164分
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“報復からは何も生まれない。報復には報復があるのみ”
映画のほぼ全編が暗殺とその計画、準備、殺しのシーンに費やされる。大義名分の殺しがいつしか、ただの“殺し屋集団”へと変わっていくことで、憎しみや哀しみの連鎖を断ち切ることが出来ない無力感と無意味さをじっくり味わうことになる。
観客も嫌と云うほどに打ちのめされるだろう。
スピルバーグ作品だからと云って、決してエンターテインメントな作品ではない。『プライベート・ライアン』の冒頭シーンと同じようなリアルな殺戮シーンが全編にオンパレードで、悲劇とは何かが徹底して描かれる。
1972年、パレスチナゲリラ“黒い九月(ブラックセプテンバー)”がミュンヘン五輪の選手村を襲撃し、イスラエル選手団 11名を虐殺した。これに対してイスラエル諜報機関モサドは、アラブのテロ指導者11人を極秘裏に暗殺する計画を企てる。
若きアヴナー率いる暗殺チームは、爆弾のプロフェッショナル、車両のスペシャリスト、偽造のプロ、後始末のプロの5人。愛国心に燃える者、プロとして仕事を受け持つ者らと、そのスペシャリストたちがひとつひとつ計画実行をしていく………。
暗殺の対象になるパレスチナの要人たちの描き方が“人間的”に描かれるのがこの映画の特徴だ。それまでのアメリカ映画に出て来るアラブ人のテロリストたちは、かつてのナチスや冷戦時代のロシア人のように徹底した悪人としか描かれてこなかった。
ここに出て来るアラブ人たちが詩人だったり、知識階級で娘がピアノの習い事をしていたり、宿泊するホテルで隣人に対して気さくに話しかけてくる人となりなど、ある意味普通に扱わうことがスピルバーグの描きたかった世界のひとつだろうし、それに対しては評価のできることでもある。
情報屋から隠れ家と指定された一室でアヴナーたちとパレスチナ人が鉢合わせするシーンも、この映画の見どころのひとつだ。ここでアラブのリーダーが語る言葉こそ彼らの悲痛な叫びでもあり、その言葉を封殺することは決して出来ないはず。アヴナーがその対話の中からアイデンティティーに疑念を抱き始めたことから、その後のシーンでのふたりの成り行きがとても非情だ。
情報屋のしたたかさは諜報活動の裏舞台を垣間見せる。イスラエルだろうがアラブだろうが、アメリカCIAであれ金さえ出せば情報を売る地下組織のファミリーが実在しているということだ。
暗殺チームのリーダー、アヴナーの家庭が描かれることで、ごく普通の人間が犯していく過ちがとても恐く感じられる。そして暗殺の見返りは、アヴナーたちが命を狙われることだ。綿々と繰り返される報復。その恐怖が、生々しいセックスシーンとして描かれる。
社会派映画として見るととても暗く陰鬱になるのだが、スリラー映画として見れば一級品であるのも間違いない。
こぼれたミルクに鮮血がひろがる甘美な絵づくりや、電話爆弾におけるスリリングさはヒチコックを思わせるほどだ。
女暗殺者を殺すシーンの陰惨さも凄い。
家族が和気あいあいで見ることができる映画ばかりがスピルバーグ映画ではないことを思い知るだろう。元来子供っぽいスピルバーグが、子供が持つような残虐性をも持ち合わせていても不思議ではない。
ラスト、延々と映るニューヨークの摩天楼。そこに映るツインタワーからひとつのことが想像できる。
いま、30数年前の事件でアラブとイスラエルの報復を描くことで、9.11から起きている世界情勢の愚かさをあぶり出している。
それは、ミュンヘンも、ニューヨークも、テロへの報復の言い訳にしてはならないのだ。