TEA FOR ONE

まぁお茶でも飲みながら気ままに、好きなことを、すこ~しネタバレしながら、のんびりと………。

「おんなの細道/濡れた海峡」*武田一成監督作品



監督:武田一成
原作:田中小実昌
脚本:田中陽造
撮影:前田米造
音楽:寺島尚彦
出演:三上寛、桐谷夏子、山口美也子、小川恵、石橋蓮司、草薙幸二郎、田山涼成

☆☆☆★ 1980年/日活/71分

    ◇

 亭主がストリップ小屋の社長でやくざでもある
 そんな女を愛してしまったボク……

 原作は田中小実昌の小説『島子とオレ』と『オホーツク妻』。
 2000年に亡くなった田中小実昌(通称コミさん)は、70年代深夜の番組『11PM』で見知った顔。手編みのニット帽をかぶり、飄々とも素っ頓狂ともいえる表情で、座付き作家をしていたストリップの話や、ピンクをはじめ諸々の映画の話、ゴールデン街の話など面白可笑しく聞かせてくれていたっけ。
 映画は、ふたつの話を一種ロードムービー風に描いてゆく。舞台は東北。哀愁感に優れた景観からはほのぼのとした空気が流れ、ダメ人間たちの心の機微が冷たい北国の世界から温かく伝わってくる、叙情ロマンポルノの傑作である。


 主人公のボク(三上寛)はストリッパーの島子(山口美也子)のヒモ。島子にはストリップ小屋“有楽ミュージック”の社長でやくざの夫(草薙幸二郎)がいて、ボクは社長のところへ「島子をください」と告げに行く。しかし小心者のボクは、小屋の前に来て口では威勢のいいことを言っていても、尻込みをする島子に引っ張られとりあえずはラブホテルへ。
 「これが最後になるかもしれないもん。これっきり、あんたとやれないかも知れないもん」と迫る島子と、切羽詰まった気持ちで貪り合うボク。
 そして覚悟を決めて小屋に向うが、社長の子分の松夫(田山涼成)に殺されそうになり、ほうほうのていで逃げ出したボクは、島子を見捨ててバスに飛び乗って当てもなくどこかへ行ってしまう。

 バスの中では、自殺志願の女ツエ子(小川恵)にウィスキーの小瓶と引き換えに金の無心をされる。

 港町の小さな飲み屋では、カヤ子という女(桐谷夏子)に出会う。
 奥の座敷で石橋蓮司と睦みあう黒テントの女優桐谷夏子が、どことなく石橋夫人の緑魔子に似ていたというと失礼かな。

 カヤ子は、九州から出稼ぎに来る妻子持ちの漁師ヒラさん(石橋蓮司)の愛人だが、これから先どうなるかわからない状況にいる。ふらりといなくなったヒラさんを追ってカヤ子はボクと一緒に別の港町へバスで向かうが、ボクには島子がいて、カヤ子にはヒラさんがいて、それにもかかわらず二人は寝てしまう。

 軀を重ねたあと「いいのかなぁ。入口でやめといた方がいいかなぁ。ヤバいことになるんじゃないかなぁ。………ポロポロ」と独り言を呟くボク。苦笑してしまうシーンだけど、その前のシーンでカヤ子が「わたしって、ふっと気が狂って間違いを起こすタチだから」とボクを見つめるところからして、女の情の怖さなのだろうか。
 ヒラさんに棄てられるかもしれない不安な時に、ボクと間違いを犯すカヤ子の気持ちはヒラさんへの情を断ち切るものなのか……桐谷夏子のアンニュイな表情が素晴らしい。

 劇中でボクは何度も「ポロポロ」と呟くのだが(「ポロポロ」は田中小実昌の短編『ポロポロ』から引用しているらしい)、この「ポロポロ」の語源というか意味を明かすのが、安旅館で出前のうどんをカヤ子とすするシーン。可笑しくも、侘しい男女の様が印象深い。

 「ポロポロっていうのはパウロパウロって意味なんだ。神様の使徒パウロ様のこと。そのパウロ様に、姦淫はしません、盗みはしませんと誓うんだ」
 「あんたキリスト教?」
 「死んだオヤジが牧師だった。………でもボクはパウロ様に誓えない。ヒトの女は盗むし、姦淫はするし……。パウロパウロじゃなくてポロポロだ………」
 「ポロポロって、寂しいね。…………ボロボロより寂しい」「うん」
 「このうどんも寂しいね」「そうだな」
 「このキッスも寂しいね」「このオッパイも寂しいな」
 「このオチンチンも寂しいね」
 「寂しい」「寂しい」

 そこにヒラさんが「楽しそうだな」と現れる。

 「遅いわよ。今頃戻ってきても」
 「なんで怒らないの。自分の女が他人と寝てるのに、なんで怒らないの」とカヤ子がヒラさんもなじるのだが、「怒れねえんだ。怒ろうと思ったけど、怒れねえんだ」と掠れて声で静かに呟くと、カヤ子は部屋を出て行ってしまう。
 寂しい思いをさせているカヤ子のことを思うと、責めることができないヒラさんで、そんな寂しそうなヒラさんとボクは一緒に酒を飲むことになる。

 ボクが溲瓶に放つ小便の勢いに「あんた若いから……勢いがいいから……俺の方が年取っちゃってるから」と、そんな寂しげな石橋連司の姿にはホロホロしてしまう。

 真夜中、ボクは島子に電話をし悪態をつく島子をなだめ、再度社長に会いに行くと約束をする。
 部屋に戻ると、カヤ子とヒラさんが抱き合っている。襖から溲瓶をそっと差し入れ「お達者で」と廊下を歩くボク。しみじみ………。

 帰りのバスでは、死んだと思われたツエ子と再会する。
 島子がいる町までついてくるツエ子。
 「千円借りてるし、あんたに会わなかったら死んでいたし、折角思い詰めた気持ちでいたのに、あんたみたいな変な人から声かけられたから………調子くるっちゃったのね」 
 「何が言いたいんだ」
 「つまり、私がいま生きているってことについて、あなたも責任があるわけ」
 変な理屈を聞きながら、ついついツエ子とラブホテルへいくボク。
 寝たあと、赤ん坊を身籠りたいと、受精を確実にしようと逆立ちをするツエ子。
 「私ね、バセドウ氏病の一種で目が見えなくなるの。ヤケになってたけど、お腹に赤ちゃんが入れば生きなきゃいけないでしょ?」
 ツエ子の居直りにボクは「絶望だよ。俺の血を継いだろくでなしがこの世にしゃしゃり出てくる。そのろくでなしが、またろくでなしをこしらえてさ……もう絶望だよ。ポロポロだよ!」

 ストリップ小屋で島子のマナ板ショーを最前列で眺めるボク。
 社長の前で、ふたたび「島子サンを……ください……」と身を縮めるボク。島子が入ってきて、手のひらいっぱいの睡眠薬を掲げ「この人に手を出したらこれ全部飲むよ」と凄む。
 その思い詰めた気配に圧倒された社長はふたりを見送り、ふたりは出てゆく。

 「しょうがねぇ。あのヤローをあてがっとかねぇと、島子のヤツ、ほんもののラチキョウ(薬狂)になっちまう………しょうがねぇ」
 呟やく社長の背中はやけに寂しいのだった。

    ◇

 男と女のどうしようもなく息苦しい関係が描かれているのに、三上寛の飄々とした風貌はまさしくコミさんを彷彿としており、うらぶれたやさぐれ感がユーモアを含んで漂ってくる。
 青森北津軽郡小泊村出身の三上にしてみれば、この生々しさは東北人としての感性なのだろう。男が主人公のロマンポルノは数少ないのだが、この作品は三上寛だからこそ成り立っている映画だ。三上寛の朴訥とした自信のない態は絶品である。
 
 もちろん女優たちもいい。ロマンポルノでは毎度ストリッパー役の山口美也子はその魅力があふれ、場末の根無し草のように浮遊する桐谷夏子の退廃性も素晴らしい。小川恵は最後のシーンでドラマ性を醸し出している。

 石橋蓮司と草薙幸二郎のふたりは、男の優しさをしみじみと滲ませ好演。


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「シンデレラ・リバティー/かぎりなき愛」*マーク・ライデル

0974-07_シンデレラ・リバティー
CINDERELLA LIBERTY
監督:マーク・ライデル
原作:ダリル・ポニックサン
脚本:ダリル・ポニックサン
撮影:ヴィルモス・ジグモンド
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:ジェームズ・カーン、マーシャ・メイソン、カーク・キャロウェイ、イーライ・ウォラック、バート・ヤング

☆☆☆☆ 1973年/アメリカ/118分

 誠実で真面目な水兵と刹那的に生きる娼婦との出会いと別れを描いた本作は、1973年製作のアメリカン・ニューシネマのひとつとして挙げてもいい作品ながら、あまり評価をされてこなかった不遇なる傑作である。

 原題の〈シンデレラ・リバティー〉とはアメリカ海軍の俗語で、真夜中までに帰還しなければならない休暇のことをいう。
 サブタイトルに〈かぎりなき愛〉などと余分な邦題をつけお涙頂戴的ニュアンスを感じさせているが、実際、心温まるヒューマンドラマではあるとして、この〈かぎりなき愛〉とは男の側の一方的な愛の奉仕でしかなく、女の側から言わせれば、どこか煩わしい愛に変化していることに男も気がつけよといっているような話なのだ。


 アメリカ海軍の甲板長ジョン・バッグス(ジェームズ・カーン)はシンデレラ休暇で上陸した港の酒場で、ビリヤードをしている女マギー(マーシャ・メイソン)と知り合い、彼女の部屋に泊まった。
 マギーは水兵相手の売春婦で、黒人兵との間に出来た11歳の息子ダグ(カーク・キャロウェイ)がおり、もうひとりお腹に赤ん坊を宿していた。
 煙草を吸い飛び出しナイフを持って荒れた日常を非行少年ダグと、その日その日を刹那的に生きているマギーらは民生委員の世話になっている。バッグスは、そんなふたりの境遇に同情し、なんとか助けにならないかと考えはじめる。
 不正が大嫌いで、汚い言葉は絶対に発せず、嘘をつかないまっとうで優しい男バッグス。17歳で海兵隊に入り、海軍こそが安住の地と信じてきたバッグス自身、温かい家庭に恵まれずに育ったことから、ひとの不幸を見過ごすことができないタチだった。
 そんな彼に、軍の健康テストで身体に疾患があることが判明し帰艦を止められ、当分の間は海軍憲兵〈SP〉に任命された。
 バッグスには仇敵がいた。昔、海軍キャンプで彼を散々いじめ、シゴイた隊長フォーシェイ(イーライ・ウォラック)をいつかどこかで巡り会い恨みを晴らしたいと思っていた。しかし偶然に再会したフォーシェイは、昔の面影もなく、ただみじめったらしい男になっていた。家族も身寄りなく、年金もなく酒場の呼び込みをするフォーシェイとバッグスは和解し、友達になった。
 そのうちにバッグスは、病院がバッグスの身分証明カードを紛失したことで給料を受け取ることが出来なくなり無一文にしまった。
 不運は重なり、バッグスがマギーの家に出入りすることから民生委員はバッグスを扶養者と見なし、救済を打ち切ってしまう。
 しかし今のバッグスには生き甲斐があった。マギーとダグ、そして産まれてくる赤ん坊がそれだ。
 マギーの出産の日、バッグスは彼女に立ち会い、無事に赤ん坊は産まれるのだが、やがて病院で死んでしまった。
 バッグスの辛抱強い善導によりダグは更生の道を歩み、深い愛情にほだされていたマギーは酒場の女から足を洗っていたが、赤ん坊の死のショックから、ふたたび元の生活に戻り出してしまった。
 ある日、マギーは置き手紙を残し家を出て行ってしまう。強がりをいうダグの姿を見て、バッグスはある決意をした。
 身分証明カードの再交付がされ、船への帰艦命令が下った日、バッグスはカードをフォーシェイに渡す。身分を交換したバッグスは、ダグと共にマギーを探すためにマギーの故郷ニューオーリンズへ向うのだった………。

    ◇

 心が通い合ったバッグスとダグが、手を繋いで去っていく港のラストシーンは、男の立場からすればハッピーエンドかもしれないけれど、マギーの立場からすれば、人生においての辛さや寂しさを救うのは与えられる愛情ではなく、同等の愛情だと男に知らしめるために去ったはず。
 マギーにとっては、かぐや姫の「神田川」の歌詞のような「あなたの優しさがこわかった」のだ。貧しい生活を強いられる自分たちへのバッグスの愛情は、女としてときに重い枷にもなる。男の優しさを愛情に置き換えたとき、それがいつまでつづくのかを信じられなくなる自分には、男からの自立こそ女の自由なのだと羽ばたいたマギーには、この先、バッグスとどこかで再会してもこの男と女の距離感は埋まらないように思える。


 デビュー作の『不意打ち』('64)の悪辣さといい、『ゴッドファーザーⅠ&Ⅱ』(’72・’74)での血の気の多いソニー役のように、乱暴者のイメージが強かったジェームズ・カーンが本作では、「下品な言葉は使わない。嘘はつかない。女は殴らない」をモットーにする真面目で誠実な男を好演している。優しい表情が何ともいい。

 娼婦マギーを演じるマーシャン・メイソンは、初出演映画だった本作でゴールデン・グローブ賞[ドラマ部門]主演女優賞を受賞しており、この輝かしい経歴でこれからを期待されるも、劇作家のニール・サイモンとの結婚で彼のふたりの子どもたちのためにあっさり休業してしまった。
 復帰作は1977年に夫ニール・サイモンが書き下ろした『グッバイガール』。この作品でふたたびゴールデン・グローブ賞[ミュージカル・コメディ部門]の主演女優賞を獲得している演技派。決して美人ではないのだが色っぽい。ちょっと鼻先が上を向いたところがチャーミングで、大好きな女優になった。

 監督は俳優出身のマーク・ライデル監督。これ以前の作品としては、スティーヴ・マックィーンの『華麗なる週末』(’69/大ヒットした『華麗なる賭け』にあやかっての邦題が紛らわしい)、ジョン・ウェインの『11人のカウボーイ』(’71/これも同時期に公開されたピーター・フォンダが監督した傑作『さすらいのカウボーイ』と間違えやすかった)があり、俳優としてはロバート・アルトマン監督の『ロング・グッドバイ』(’73)において印象的なギャングのボスを演じていた。

 撮影監督のヴィルモス・ジグモンドは、先の『さすらいのカウボーイ』『ロング・グッドバイ』をはじめ、『スケアクロウ』『続・激突カージャック』など、70年代のアメリカン・ニューシネマの屋台骨を支えてきたハンガリー出身の名映画キャメラマンだ。本作では、雨の多いシアトルでのオール・ロケにおいて曇りの微妙な光をリアルなトーンで映しとり、物悲しい心象風景を生み出している。 
 ライデル&ジグモンドのコンビネーションはこの後、1979年の『ローズ』(ベッド・ミドラーのジャニス・ジョプリンぶりは必見)においても素晴らしい傑作を生んでいる。

    ◇

★ロング・グッドバイ★
★続・激突カージャック★
★スケアクロウ★

「あ、春」*相米慎二監督作品




監督:相米慎二
原作:村上政彦「ナイスボール」
脚本:中島丈博
音楽:大友良英
出演:佐藤浩市、斉藤由貴、藤村志保、富司純子、山崎努、余貴美子、三林京子、原知佐子、河合美智子、村田雄浩、寺田農、塚本晋也、岡田慶太(子役)、笑福亭鶴瓶(友情出演、三浦友和(友情出演)

☆☆☆☆★ 1998年/松竹/100分

    ◇

 相米慎二監督作品12作目は、「家族愛」「親子愛」「日常生活」といった平凡でありふれた市井の人々の生活で構成するいわゆる松竹大船調喜劇の趣きながら、現代人のこころに棲む不安や哀しさを捉えながら、本来人間が持つこころの豊かさやしなやかさを透くって見せ、人間讃歌としての温かみと美しさにあふれた珠玉の作品である。


 一流大学を出て証券会社に勤める韮崎綋(佐藤浩市)は、良家の娘瑞穂(斉藤由貴)と結婚し、妻の実家で一人息子と瑞穂の母親と一緒に暮らす平凡な男。趣味は庭先でニワトリを飼うことだ。
 バブル期に入社した綋は、不況の波がよせる今は悪戦苦闘中。会社の倒産が噂され、同期が次の就職先を見つけて自分を誘ってくれるも、不安を感じながらも“順風満帆な人生”はつづくものと、どこかで思おうとしている。
 そんなある日、綋は会社からの帰り道に浮浪者然とした男に声をかけられる。男(山崎努)は、5歳のときに家を出て行った父親の笹一だと告げる。母親から「5歳のとき父親は死んだ」と聞かされ成長してきた綋は戸惑うが、その日以来、笹一は家に住みつくことになる……。

    ◇

 奇をてらったと云われ続けた相米スタイルの長回しが、ほんわりと長閑な物語のリズムに見事に嵌り心地よいムードを醸し、春の日長一日の情景に聴こえるほのぼのと懐かしさを憶えるサウンドも心地よい。

 太った黒猫がノソリと一件の家に入り込み、猫の目線で廊下から庭に出て鶏舎に辿り着く。「コケコッコ~」の鳴き声と、笑福亭鶴瓶扮する住職が叩く木魚の乾いた音。
 この作品に通底するのどかな世界観が感じられる冒頭の数分間には、庭で飼われるニワトリとそれを少し訝る義母の言葉から綋の育ちも示され、見事な出だしである。

 映画の主軸は、現実から目を遠ざけどこかボンヤリした“普通の男”佐藤浩市と、図々しさが秀でながらどこかロマンチストな“無頼な男”山崎努のふたり。
 疎まれながらも惹き付けられる笹一は、山崎努の強烈な個性と色気があってのこと。際だっている。さすがに凄い。
 佐藤浩市はどこまでも受け身の演技。どこか弱々しく影の薄い佐藤浩市だが、病院の屋上での山崎努とふたりきりの長回しは素晴らしいシーンになっている。血縁だけではない人間関係のつながりと、家族の存在の大切さに気づかされる。
 そして、このふたりの人間性はもとより家族の在り方とか儚さに目を向けさせるのが、男たちを取り囲む“強い”女たちだ。

 おっとりと上品ながら仄かな色気を携えている義母の郁子には、かつての大映のスター女優だった藤村志保。未亡人になってからの新たな人生を嬉々として楽しんでいる様を、大真面目に演じれば演じるほど可笑しく、天真爛漫な姿からはしたたかさも見え隠れする。
 綋の母親公代には、かつての東映任侠映画で一枚看板を背負っていた富司純子。トラック運転手相手の安食堂を切り盛りする、勝気であけすけな女性だ。終盤、ある秘密を暴露するも(しら〜とした表情は絶品)、ラストの散骨シーンではその秘密さえ反故にするような不敵な笑みが凄い。
 このほとんど同時期デビューの大女優ふたりの芝居が、上手く物語を転がしてゆく。

 喘息を煩い少し情緒不安定気味ながら、優しくおおらかに家庭を守っている斉藤由貴もいい。家の中に起こった波風によって生気を取り戻していく様を、しなやかに演じている。
 
 そして出番は少ないが、公代の義理の息子(三浦友和)の嫁を演じ、蓮っ葉で不貞腐れた態度で迫力を見せる余貴美子と、笹一の内縁の妻だと言って現れる三林京子の存在も印象に残る。

 法事からはじまり散骨で終わるこの映画は、笹一の死と同時に卵からヒヨコが孵るエピソードのような輪廻転生の死生観や、家族としての共同体幻想も含んだ、春の憩いのファンタジーであろう。
 
[相米慎二作品]
★ションベン・ライダー★
★魚影の群れ★
★ラブホテル★
★台風クラブ★
★お引越し★