TEA FOR ONE

まぁお茶でも飲みながら気ままに、好きなことを、すこ~しネタバレしながら、のんびりと………。

「ハンナとその姉妹」*ウディ・アレン

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HANNAH and HER SISTERS
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
出演: ミア・ファロー、ダイアン・ウィースト、バーバラ・ハーシー、ウディ・アレン、マックス・フォン・シドー、マイケル・ケイン、キャリー・フィッシャー、モーリン・オサリバン、ロイド・ノーラン
☆☆☆☆★ 1986年/アメリカ/103分

    ◇

 人生の機微をベースに「生と死」「愛」「家族」「欲望」「不貞」「出産」「宗教」「芸術」など普遍的テーマを、ウディ・アレンならではの皮肉とユーモアを効かせて描いた一大家族群像劇。
 三姉妹の人生と恋愛、彼女らに絡む男たちの愚かで滑稽な姿をオムニバス風に、小説の頁をめくるように16の章に分けて各人のモノローグで展開していく構成で、生き生きとしたニューヨークのロケーションと、クラシックとジャズのスタンダード・ナンバーをあふれるくらいに敷き詰めた、見応え聴き応え充分な傑作である。


 オープニング・クレジットに「You Made Love You(恋のとりこに)」が流れ、つづいて聴こえてくるハリー・ジェイムスの「I've Heard That Songs Before(いつか聴いた歌)」に惹き込まれ、第1章はバーバラ・ハーシーの顔のアップではじまる。
 
 元俳優という芸能一家の感謝祭の家族パーティ。
 長女ハンナ(ミア・ファロー)は、『人形の家』のノラを演じ絶賛されるほどの女優でありながら主婦業もこなし、夫エリオット(マイケル・ケイン)と平穏な家庭を築いている。
 次女のホリー(ダイアン・ウィースト)は売れない女優。何をしても熱して冷めやすく、恋愛も仕事も中途半端で、ハンナにはライバルというよりも姉の才能に嫉妬心でいっぱい。
 三女のリー(バーバラ・ハーシー)は、厳格な歳の離れた画家フレデリック(マックス・フォン・シドー)と同棲中。
 父親(ロイド・ノーラン)が「Bewitched(魅惑のとりこに)」をピアノで奏で、母親(ミア・ファローの実母モーリン・オサリバン)がピアノの横で口ずさんでいる。
 パーティで久しぶりにリーに会ったエリオットは、彼女の若々しい魅力に惹かれている。中年男の浮気心……不倫の予感だ。

 ある日、ハンナの家に別れた元夫ミッキー(ウディ・アレン)がやって来る。ミッキーに子種がないことで人工授精で作ったふたりの子供たちがおり、その誕生日にプレゼントを持ってきたのだ。別れたとはいえ、今はよき友人として付き合っているミッキー。自分が病気なのではないかと悩む病気恐怖症だ。このあたり、メロドラマ的展開に笑いのスパイスを加えるウディの自己描写が面白い。
 ハンナの子らとして全員ミアの実の養子たちが出演していたり、ミア自身のアパートがそのままハンナの家として使われ、なんともウディの実日常そのままが描かれる態のようだ。

 さて、エリオットはリーに近づいていく。
 エリオットが偶然を装うためにソーホーの街なかを走り回るシーンとか、詩集を贈ったり、フレデリックのアトリエでキスを迫るシーンとか、妻の妹への気持ちと彼女へのアプローチにドキドキする男の不器用さと滑稽さには笑ってしまうのだが、どこか自分にも当てはまることに気づかされる。男ならこんな感覚って、みんな持っているのではないかと共感できる描写だ。
 エリオットの気持ちとして甘いムードに合わせレコードプレイヤーからバッハの「ラルゴ」が流れ、リーの戸惑いは揉み合った拍子に針が飛び「アレグロ」に変わるといった見事なBGM変換。この「チェンバロ協奏曲第5番~ラルゴ」はミレーユ・ダルクの傑作『恋するガリア』('65)のテーマとしての印象が強いが、ここではリーのテーマ曲として何度も流れてくるのが印象深い。

 実はリーの方も、厳格で排他的なフレデリックとの生活に息苦しさを感じているので、ふたりがベッドインするには時間はかからないのだが、そのあとのふたりの思惑の違いがまた可笑しい。
 エリオットにとって妻ハンナは心の休まる大事な存在だから「ああ、俺は何てことをしてしまったのだ」と思い悩み、真夜中に電話でリーに今日のことは無かったことにしようと伝えようとするのだが、その矢先にリーの方から先に電話があり「あなたのことを考えてる。今日はステキな日だったわ」なんて言われてしまうと、エリオットも「わたしもだよ」と言ってしまう。ここにも、平凡な男の愚かさに共感してしまう。

 プレイボーイで名高いマイケル・ケインが、不倫にウブな男を演じる可笑しさ。これは見事なキャスティングだが、当初はジャック・ニコルソンにオファーされたという。しかしJ・ヒューストン監督の『女と男の名誉』の撮影に入ったために、マイケル・ケインに白羽の矢。
 ジャック・ニコルソンは『女と男の名誉』でアカデミー賞主演男優賞にノミネートはされたが受賞はできず、マイケル・ケインはこの作品でアカデミー賞助演男優賞を見事受賞している。何が功を成すかわからないものだ。

 もうひとり滑稽な男ミッキーは、病気に関して誇大妄想になり本格的に検診を受けるが、結果はまったくの健康体。それが逆に虚しくなり、人生の意味を考えるような心の病に陥ってしまう。自殺用のライフルを買い求めたり、ユダヤ人なのにカトリックに改宗しようとしたり、ウディの右往左往ぶりが大いに笑えるのだが、これもまたどこか共感するところがあり、つくづく人間ってだらしない存在だと思うのである。

 コカイン中毒でパンク・ロックが趣味、歌がヘタなのにミュージカルのオーディションを受けるホリー。独身で自由気ままに生きているが、一見奔放そうで実は繊細で傷つきやすい性格の持ち主。このホリー役を、ダイアン・ウィーストがとてもチャーミングに演じている。結果、アカデミー賞助演女優賞のほか数々の賞を手にしているのも嬉しい。

 ホリーは女優を諦め戯曲を書きはじめる。
 エリオットとの関係を断ち大学に戻ったリーは、教授と仄かな恋に落ちる。
 ハンナは、エリオットと口論をするものの、夫への愛は変わらない。
 ミッキーはホリーと街で再会し、楽しく語り合う時間をもつ。

 「人生に答を求めてはいけない。神はいなくても、人生は生きて死ぬだけ。本気で悩むようなことはないのだから、暗い人生をおくることをやめ、命のある限り“今”を楽しめばいい」
 ミッキーがマルクス兄弟の映画から生き方を悟ったことをホリーに語るシーンは、セントラルパークの紅葉が美しい。

 ラストシークエンスも感謝祭パーティ。
 ハンナの父親と母親、ハンナとエリオット、リーは新しい恋人を連れ、ホリーはミッキーと結婚。

 「素晴らしいドラマだ。姉との結婚に破れた男が、何年か経ってその妹と結婚する」
 「ハートって、とても弾力性のある筋肉だね」

 ホリーがミッキーに「妊娠したの」と告げて映画は終わる。

 開き直りこそ、人生のラビリンスを楽しむ術だ。
 「人生捨てたものじゃない」と結論づけるウディ・アレンの前向きさが気持ちよく、エンディング・テーマはふたたび「I've Heard That Songs Before(いつか聴いた歌)」が聴こえてくる。

 後年、ウディ・アレンはいくつかのインタビューにおいて『ハンナとその姉妹』のエンディングは最悪だと語っているが、入り乱れた人間関係を軽いコメディで温かく描くウディ・アレンの悲喜劇はやはり素晴らしいと思うのだが。

1987-04_ハンナとその姉妹

[ウディ・アレン作品]
★アニー・ホール★
★インテリア★
★マンハッタン★
★ブロードウェイのダニー・ローズ★
★カイロの紫のバラ★
★マンハッタン殺人ミステリー★


★恋するガリア★

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「カイロの紫のバラ」*ウディ・アレン

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THE PURPLE ROSE OF CAIRO
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ディック・ハイマン
出演:ミア・ファロー、ジェフ・ダニエルズ、ダニー・アイエロ、ダイアン・ウィースト
☆☆☆☆ 1985年/アメリカ/84分

    ◇

 ショウビジネスへのノスタルジアをかき立てた『ブロードウェイのダニー・ローズ』につづいて発表された本作は、映画への愛にあふれたファンタジー・ロマンスとして、すべての映画ファンを幸せな気分にさせてくれる作品になっている。
 現実逃避で映画館に通う主人公を見ながら、われわれ観客も虚構の世界から夢と幸福を共有させられるといった[映画の本質][映画の力]を感じさせてくれる傑作である。


 1930年代のニュージャージー。
 失業中の夫(ダニー・アイエロ)を、ウェイトレスの仕事で支える妻のセシリア(ミア・ファロー)。惨めな生活と夫との愛の無くなった生活を逃れるために、セシリアは映画館通いをしている。
 今上映されている『カイロの紫のバラ』という作品に夢中のセシリア。ある日、映画に夢中になり過ぎたために、ダイナーでヘマをやらかしウェイトレスの職をクビになってしまう。
 セシリアは自分の不甲斐なさに涙し、その辛さを忘れるために映画館に足を運ぶ。何度も何度も繰り返し観る『カイロの紫のバラ』。
 本編では上映のモノクローム作品のタイトルを何度も映し、その度に上映シーンも進む形でわれわれ観客にも『カイロの紫のバラ』を観ている感覚を味あわせてくれる。

 そして突然、スクリーンの中から冒険家のトム・バクスター(ジェフ・ダニエルズ)がセシリアに語りかけてきた。
 「君はいつも見に来てくれるね」
 「わたしの、こと?」
 「そう。これで5回も見ている」

 そう言うとトムはスクリーンを飛び出してくる。 
 「いつも君を見ていた」
 実際には俳優がカメラを見て愛の告白をしているのを、観客は自分を見ていると想像しながら夢心地になれるのが映画の力。
 現実世界に出て来たトム。スクリーンの中の人物たちが「戻れ!」と叫ぶが、トムはセシリアを連れて劇場を出て行く。
 「もう辞めた。2,000回も同じ芝居、やってられないよ」

 「どこへ行った?」
 「外の世界」
 「外はどうかな?」
 「楽しくなさそうよ」
 登場人物がひとり居なくなり、画面の中では登場人物たちが勝手なことを言い出す始末。
 スクリーンの中と観客との言葉の応酬が楽しい。

 映画館の喧噪をよそに有頂天なセシリア。ひと目惚れをして結婚を迫るトム。“映画のような”ロマンスがスタートするのだが、そこに、自体を収拾するためにトムを演じている俳優のギル(ジェフ・ダニエルズ:二役)が現れ、ギルもまたセシリアにひと目惚れをして愛の告白をする。 
 〈虚構の世界〉のトムと〈現実の世界〉のギル。

 ♪ 夢中になるのはやめましょう 夢はいつか終わるものだから
   その日を楽しくすごしましょう ふたりで ♪

 セシリアが選んだのは現実逃避していた〈虚構〉のトムではなく、金も名誉もある〈現実〉のギルの方だ。しかし、セシリアは〈現実の世界〉に打ちのめされる。夢の儚さと現実の厳しさを突きつけられたセシリアが向うところは、映画館しかなかった。

 ここからラストまでの数分間が秀逸。
 上映されているのは恋焦がれた『カイロの紫のバラ』ではなく、ミュージカル映画『トップハット』に代わっている。虚ろな目でスクリーンを見つめるセシリア。
 「Cheek to Cheek」に合わせて、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースが踊っている。徐々に、セシリアの顔にほんの少し笑顔が戻ってくる。

 至福の時を与えてくれる映画。辛い日常を忘れさせてくれる映画の力……その場限りの慰めでも、人間生きてくための幸福感はないよりあった方がいいに決まってる。
 セシリアが観る『カイロの紫のバラ』から得た幸せが、セシリアが出ている『カイロの紫のバラ』を観るわれわれ観客の心地よさになる。見事なエンディングである。

 ミア・ファローの、全身で喜怒哀楽を表現する存在感と、このラストの表情は素晴らしい。

 また、ウディ・アレンの作品には欠かせないダイアン・ウィーストが本作で初登場する。トムの純粋な心(虚像だから当たり前)にホロリとする気のいい娼婦エマを演じている。笑顔がとても可愛らしく、おっとりした感じが好きな素敵な女優だ。
 彼女はこの後、ウディ・アレンの『ハンナとその姉妹』『ブロードウェイと銃弾』で2度のアカデミー賞助演女優賞を獲得している。

1986-05_カイロの紫のバラ

[ウディ・アレン作品]
★アニー・ホール★
★インテリア★
★マンハッタン★
★ブロードウェイのダニー・ローズ★
★マンハッタン殺人ミステリー★

「ブロードウェイのダニー・ローズ」*ウディ・アレン

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BROADWAY DANNY ROSE
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ディック・ハイマン
出演:ウディ・アレン、ミア・ファロー、ニック・アポロ・フォルテ
☆☆☆☆ 1984年/アメリカ/84分/B&W

    ◇

 先に紹介したウディ・アレン映画のマイ・ベスト3『アニー・ホール』『マンハッタン』『インテリア』は結果的にダイアン・キートン出演作になってしまったのだが、ミア・ファロー出演作も忘れてはいない。『ブロードウェイのダニー・ローズ』『カイロの紫のバラ』『ハンナとその姉妹』は、誰もが選ぶ珠玉の3作であろう。

 ビリー・ワイルダー映画のような人情コメディ『ブロードウェイのダニー・ローズ』は、ショウビジネスで働く人々の悲哀が描かれてゆく。
 50年代のイタリア・コメディを狙ったというモノクロームの映像は、『マンハッタン』同様にゴードン・ウィリスのカメラが陰影に輝くニューヨークの姿を美しく捉えている。

 ダニー・ローズ(ウディ・アレン)は、片足のタップダンサー、吃音の腹話術師、盲目の木琴奏者、解き方を学べない催眠術師など、ショウビジネスの世界の底辺にたむろする芸人たちのマネージャー。
 仕事は熱心で、芸人たちには親切。心優しい夢追い人の彼だが、少し芽がでた芸人たちは必ずみんな彼の許を離れてしまう。
 三流芸人を抱えたダニーの唯一貴重なタレントが、かつて消化不良を歌った「アジータ」というヒット曲を1曲だけもつイタリア人の歌手ルー・カノーヴァ(ニック・アポロ・フォルテ)だ。
 必死に売り込んだ末に、やっとウォルドルフ・アストリア・ホテルのショーの出演契約ができた。しかしショーの当日、ルーは愛人のティナ(ミア・ファロー)がいないと歌えないとダダをこねる。
 ティナは、大きく金髪をふくらませたカーリーヘアで、いつも大きなサングラスをかけ、タイトで派手な服を着て、がさつな言葉遣いのイタリアン・マフィアの未亡人。
 お人好しのダニーはティナのいるニュージャージーへ出かけるが、相手にしないティナはマフィアのパーティに出かけてしまう。このパーティにダニーも出席したために、ティナを恋慕するボスのひとりからダニーに自分の女をとられたと勘違いされ、マフィアのヒットマンたちに追いかけられるハメになる。
 ダニーらはなんとか追っ手から逃れ、当夜のディナーショーにティナを連れて行ったのだが、ダニーは思いもかけない裏切りを知らされる。
 自己中心的なティナだが長いことルーの才能を信じてきた彼女は、知り合いの有名マネージャーをルーに紹介していたのだ。そして、チャンスに飛びついたルーはダニーを捨てて去っていってしまった。

    ◇

 冒頭、老年のヴォードヴィリアンたちが“カーネギー・デリカテッセン”で、ダニー・ローズの噂話をするところからはじまる。この、ざわめきの中からはじまるシーンがとてもいい。
 “カーネギー・デリカテッセン”は、ブロードウェイの劇場近くにあるアメリカで一番有名なデリ。実際、ブロードウェイの芝居が終わったあとには芸能関係者たちの溜まり場になり、いつも満席。
 何度もニューヨークへ行ったわりに一度も入ったことはないのだが、はす向かいのウェリントン・ホテルの窓から“カーネギー・デリカテッセン”が見える部屋に泊まったときは、夜遅くまで賑やかだったのを見ている。
 撮影は実際の店舗のなかで撮影され、昔話に花を咲かせる男たちも本物のヴォードヴィリアンたちで、このなかには、ウディ・アレンがスタンダップ・コメディアンをやっていた頃のマネージャーもテーブルを囲んで出演している。
 
 エンターテインメントの世界で生きいくためには、3S[スター][スマイル][ストロング]のキイワードに支えられているという人生観で芸人たちに接するをダニーの優しさは、そのまま、ウディ・アレンのショウビジネスへの愛があふれる語り口で感じさせてくれる。
 風船アーティストやコップ演奏家など売れそうにもない芸人たちの売り込み、「セプテンバー・ソング」を弾くインコが猫に喰われてしまった調教師への労りなど、芸人たちを見つめる眼差しは優しい。

 もちろん義理や人情ばかりではなく、それと同じだけの不義理と不人情もある。ブロードウェイの小さな劇場から、ラスヴェガスの大きなステージに立つには大きなバックボーンがいる。だから苦楽を共にしたマネージャーを離れることは、それこそ日常茶飯事。
 ダニーにしても、ルーの裏切りの言葉を聞いた時は腹がたっても、これは致し方ないことだと彼を許してしまう。そして裏切りということで云えば、彼自身にも心当たりがあるからだ。

 ダニーとティナがマフィアに捕まったとき、ティナの相手の名前を稼ぎ頭のルーとは云えず、彼が抱える世界最低の腹話術師の名前で誤摩化してしまう。これはダニーにとって大きな罪の意識となる。
 そして、間違えられて暴行を受けた腹話術師へダニーはきちんと温かい手を差し伸べる。これもまた、マネージャーと云う仕事を知り尽くしているウディ・アレンの人物造形の深さが現れている。

 罪の意識としてはティナもまた、ダニーへの心残りがある。そして、この映画の最高のラストが待っている。
 1年後の感謝祭の日、ダニーの部屋では売れない芸人たちを招いて、こころばかりのパーティを開いている。「呼んでくれてありがとう」と芸人たちの楽しそうな顔から、ダニーの優しさが伝わってくる。そこに、ルーと別れたティナが訪ねてくる。
 「お詫びに来たの」
 「この1年ツイてなかった。このままでは失業さ」
 「友だちにならせて」
 「名案とは思えないな」
 帰ってしまうティナ。虚ろな顔のダニー。
 そして、7番街を走るダニーは“カーネギー・デリカテッセン”の前でティナに追いつく。
 ウディ・アレン映画にして、初めてのハッピーエンドと言えないかい。
 
 映画はヴォードヴィリアンたちの会話に戻り「ダニー・ローズ。彼は生きた伝説だ」の台詞で終わる。
 ダニーは、ブロードウェイで最高の名誉を得た。“カーネギー・デリカテッセン”のメニューには「ダニー・ローズ・スペシャル・サンドウィッチ」という名前が書いてあるのだから。
 そしてこのサンドウィッチは、今でも本当にある名物メニューだ。

 大きなサングラスでほとんど顔を見せないミア・ファローは、目が隠れているので、怒り、笑い、悲しみ、虚ろなど、表情での演技ができないのだが、タフでナイーブなセクシー美女を見事に演じている。女優の顔を隠したままの演出ってのが凄い。
 このティナ像は、ウディとミアが馴染みの有名イタリアン・レストランのオーナー夫人が、金髪にサングラスでいつも煙草を吹かしている姿を見て「いつかあんなキャラクターを演じてみたいわ」と言うミアの言葉がヒントで書かれたと云う。

 冒頭、劇中、エンディングに歌われる「アジータ」は、ルー役のシンガー・ソング・ライターでもあるニック・アポロ・フォルテのオリジナルで、チャップリン映画『ライム・ライト』の「ティティナ」に似た曲。軽快なイタリアーノ気分でウディの遊びごころが味わえるし、ショーの中で歌われる「マイ・バンビーノ」というオリジナル曲も、グッとくるカンツォーネである。

1985-09_ダニー・ローズ

[ウディ・アレン作品]
★アニー・ホール★
★インテリア★
★マンハッタン★
★マンハッタン殺人ミステリー★

「マンハッタン」*ウディ・アレン

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MANHATTAN
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ジョージ・ガーシュウィン
出演:ウディ・アレン、ダイアン・キートン、マイケル・マーフィ、マリエル・ヘミングウェイ、メリル・ストリープ、アン・バーン
☆☆☆☆☆ 1979年/アメリカ/96分/B&W

    ◇

 セントラル・パーク、摩天楼、クインズボロ・ブリッジ、エレインズ・レストラン(有名人御用達の高級店)、ニューヨーク近代美術館、メトロポリタン美術館、リゾーリ書店、ヘイデン・プラネタリウム、ロシアン・ティールーム、リトル・カーネギー・ホール………マンハッタンのあらゆる名所と華麗なガーシュウィンのメロディを背景に、ニューヨーカーたちの人間模様と、人生の哀歓を綴った大傑作である。


 2度の離婚歴がある中年の放送作家アイザック(ウディ・アレン)は、17歳の恋人トレイシー(マリエル・ヘミングウェイ)と付き合っている。現在の彼の最大の悩みは、レズビアンの元妻ジル(メリル・ストリープ)が暴露本を出版しようとしていること。
 アイザックの友人イエール(マイケル・マーフィ)は、12年の夫婦生活がありながら美人ジャーナリストのメリー(ダイアン・キートン)と不倫をしていると相談される。

 近代美術館でメリーを紹介されたアイザックだったが、インテリぶったメアリーの態度に第一印象は最悪。しかし、再びパーティで出会った時ふたりは意気投合する。
 日曜日、イエールにデートを断られたメリーはアイザックを誘う。ひと目惚れしていたアイザックは喜んでやってくる。セントラルパークを散歩中に雷雨に襲われ、ヘイデン・プラネタリウムに入って話すうちに益々親密になり、ふたりはメリーのアパートでベッドイン。
 妻(アン・バーン)を愛し別れる気のないイエールは、メリーにふたりの中を清算すると言い出し、メリーは嘆き悲しむ。アイザックはメリーを立ち直らせようと、映画と美術館巡りのデートに誘い、よせばいいのにトレイシーには別れ話を切り出した。

 しかし、アイザックとメリーの関係は一過性のもの。人生を誰にも邪魔されたくない現実派のメリーと、男女の関係に理想を求めるアイザックとは相容れるものがなく、メリーはやっぱりイエールを愛しているとアイザックに別れを宣言する。
 「好きになり別れて、好きになって夕食前にまた別れる。何て云う友達だ」とイエールを問いつめるアイザックは「神のつもりか? ぼくらは人間だ」とあしらわれる。
 トレイシーと別れたことを悔やむアイザックは、マンハッタンの街並みを走り抜き、彼女のアパートに向う。トレイシーは丁度、半年のロンドン留学に旅立つところだった。
 愛を告白するアイザック。しかし、トレイシーにはロンドン行を変える意思はなかった………。


    ◇

 ウディ・アレン映画の中では一番のお気に入り作品であり、ニューヨーク好きには堪らない映画だ。

 なんと云っても、夢の国のようにニューヨークを撮影したゴードン・ウィリスのモノクローム映像と、全編に流れるガーシュウィンの音楽の素晴らしさ。すぐにサウンドトラック盤を買い求めたのは云うまでもない。

 ウディ・アレンがクラリネット奏者としてプロ級なのは周知のこととして、その彼がニューヨークへの限りない愛を込めて「Rhapsody In Blue」をオープニングに流す粋なこと。
 真っ暗なスクリーンからマンハッタンの摩天楼がモノクロームで浮かび上がってくると、低いクラリネットの音色が響いてくる幕開け。
 朝から夜の時間が流れるニューヨークの街に、魔法が降り注ぐ至高の4分間である。

 朝まで語り明かしたアイザックとメリーのチャーミングなシーンには「Someone To Watch Over Me」が流れる。

 アイザックがビレッジから全速力で走るクライマックスと、ラストのアイザックとトレイシーとの会話……これもいい。
 「6ヶ月すれば戻ってくるわ」
 「半年は長い」
 「愛があれば大丈夫でしょ」
 「君は変わる。半年で別人になる」
 「経験を積めと云ったのはあなたよ」
 「いま、君が変わるのはイヤだ」
 「変わらない人もいるわ。……少しは人を信じなきゃ」

 別れの曲は「But Not For Me」。
 大人に変貌したトレイシーの成長に、半年経っても何も変わらないだろう中年男の哀感の顔で映画は終わる。この歳で再見すると、これもまたしみじみだな………

 アイザックとメリーがシネマ1で観る映画は、1962年に製作された稲垣浩監督の日本映画『忠臣蔵』。ネイティヴ・ニューヨーカーらしい選択かも……。


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 我が名古屋には、テレビ塔を中心にしたエリアに1978年に開業したセントラルパークというファッション・プロムナードがあり、この映画の公開時は、そのセントラルパークが協賛というかたちで大々的に映画の宣伝がされていた。
 公開された劇場は名古屋ミリオン座で、カップルで入場の場合には同伴の女性ひとりが無料で鑑賞できるサービスを敷いていた。当時はなんとも太っ腹な特典だったんだなぁ。
 併映作はマーチン・スコセッシ監督の『ニューヨーク・ニューヨーク』('77)が再上映されていた。


「インテリア」*ウディ・アレン



INTERIORS
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ゴードン・ウィリス
出演:ダイアン・キートン、ジェラルディン・ペイジ、E・G・マーシャル、クリスティン・グリフィス、メリー・ベス・ハート、モーリン・スティプルトン、リチャード・ジョーダン、サム・ウォーターストン

☆☆☆☆ 1978年/アメリカ/93分

    ◇

 アカデミー賞受賞の『アニー・ホール』から一転して、I.ベルイマン・スタイルのシリアス・ドラマに挑戦した作品。
 アメリカの知的で裕福な家族の崩壊を上質な舞台劇のように展開させた人間ドラマで、両親や姉妹との情愛と断絶、男と女の孤独、死と生の謎、自我との葛藤、コンプレックスと反撥……人生の機微が、背景音楽を一切流さずに静かに、厳粛に描かれる。


 ロングアイランドに住む裕福な実業家アーサー(E・G・マーシャル)と、高名なインテリア・デザイナーの妻イヴ(ジェラルディン・ペイジ)とは結婚30年。ふたりの間には3人の娘たちがいる。
 長女のレナータ(ダイアン・キートン)は売れっ子詩人でイヴの芸術家気質を最も受け継ぎ、姉妹のなかで一番感受性が強い次女のジョーイ(メリー・ベス・ハート)は、作家ながら中々才能が開花せずレナータに強いライバル心を持っている。三女のフリン(クリスティン・グリフィス)は恵まれた容姿を生かしてハリウッドで女優をしているが中身がない。3人は、それぞれ夫や恋人との間で問題を抱えている。
 ある日、アーサーがイヴに別居をしたいと告げる。イヴの、自分の美意識と生き方で支配してきた生活に耐えられなくなり、これからは自分の生き方をしていきたいと言うのだ。
 心理的圧迫感を感じていたのは、程度の差はあるにしても娘たちも同じ思いだった。
 イヴは家を出て行った。

 アーサーがある女性を娘たちに紹介する。パール(モーリン・スティプルトン)と名乗る女性は、知的だが冷たいイヴとは対照的に、無教養ではあるが温かく人懐っこい女性だった。激しく父を非難するジョーイだが、レナータには父の気持ちが理解できる気がした。
 イヴとの離婚が成立し、アーサーとパールの結婚式。複雑な気持ちで列席する三姉妹。その夜、みんなが寝静まったころにイヴがそっとやって来た。ひとり起きていたジョーイは、母親に対して自分の思いを投げつけるのだった。自己満足のために家を支配してきたと痛烈に批判されたイヴは、その朝、冬の荒れた海に入っていくのだった………。

    ◇

 タイトルの「インテリア」が複数形の「INTERIORS」になっていることで、登場人物たちの内面を象徴していると云うのがわかるだろう。

 アーサーが「氷の宮殿」と評する自分たちが住む家は、白を貴重に余計なものはない整頓された室内で、そこに住む人間の心の空虚感と冷たさがひと目でわかる。 
 冬の曇天空と、海の波の色も…白に近く様々に美しいが、怖い色彩だ。

 ふたりのベテラン女優、ジェラルディン・ペイジの淡いブルーの衣装と、モーリン・スティプルトンが着用する深紅のドレスも実に象徴的だ。
 空虚な世界に暮らす我々には、“温もり”だけが救いだといっているのだろう。

 海を眺める三姉妹の、沈黙とカットアウト………強烈な印象を残す素晴らしいラストである。

 この『インテリア』は、ウディ・アレン映画としてはマイ・ベスト3の1本(ベスト1は『マンハッタン』で、ベスト2が『アニー・ホール』)で、初見時の1979年には『ディア・ハンター』と『エイリアン]を抑えてベスト1に上げたほど感銘を受けた作品であった。


「フィギュアなあなた」公式サイトOPEN!

いよいよ

石井隆 始動

★フィギュアなあなた★

公式サイトがオープンされた!

「黒天」を思わすアクションもあるんだぁ

しかっし!

名古屋はどこで上映されるんじゃ?????

「アニー・ホール」*ウディ・アレン

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ANNIE HALL
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン、マーシャル・ブリックマン
撮影:ゴードン・ウィリス
出演:ウディ・アレン、ダイアン・キートン、トニー・ロバーツ、シェリー・デュヴァル、キャロル・ケイン、ポール・サイモン、クリストファー・ウォーケン、シガニー・ウィーバー、ジェフ・ゴールドブラム、トルーマン・カポーティ(ノンクレジット)

☆☆☆☆ 1977年/アメリカ/93分

    ◇

 それまでのウディ・アレンはスラップスティック・コメディ映画ばかりと見られたが、本作から、シニカルな大人の会話と長回しといった、現在のウディ・アレン映画のパターンが定められた。
 アカデミー賞の主要5部門を受賞したにもかかわらず、授賞式にアレンが出席しなかったことは有名。
 日本公開はこのアカデミー賞前の1978年1月に公開されたが話題にならなかったと思う。初見は4月の凱旋公開時だった。


 ユダヤ系のスタンダップ・コメディアンのアルヴィ・シンガー(ウディ・アレン)は、うだつの上がらない風采ながら女性関係に事欠かさない優雅な独身生活を送っている。
 ある日、アニー・ホール(ダイアン・キートン)という歌手志望の女性と出会い、いつも笑顔でファッションセンスもよく、気の利いた会話を話す彼女に興味を惹かれた。
 間もなくふたりはアルヴィのアパートで同棲。しかし、最初は快適だった生活も、新鮮さがなくなるにつれギクシャクし出し、セラピーに通ったりするがうまくいかない。
 そんな時、人気歌手トニー(ポール・サイモン)に褒められたアニーは、彼からLAに誘われる。取り残された気分になるアルヴィは、アニーと男友達の間を疑心暗鬼になってくる。
 アニーはLAに行ってしまい、彼女への愛が必要と感じたアルヴィもLAに飛ぶが、アニーはNYに戻る意思はなかった………。

    ◇

 屈折した自虐性に満ちた台詞の連発……愛に餓えた中年男の恋の行方。
 ウディ・アレン自身が幼い頃から抱えてきたコンプレックスが、中年になって女性関係にどう影響するのかを自虐的に描いたコメディで、都会に生きる男女の日常がカリカチュアされながらも、生き生きと描かれている。スノッブ層の知的遊戯感が強いのが鼻につくかもしれないけれど……。

 長回しのなかでずっと喋り続けるウディ・アレンの映画は、英語力のない日本人の字幕頼りには限界があるので、本当の面白さが伝わらないのだろうが(日本人にはユダヤ系のジョーク自体、本質を理解するには無理なところがある)、主人公がカメラ(観客)に向かって自己内面を語るところから映画がはじまり、幼年期、アニーとの馴れ初めなどの時間軸を前後しながら、ときにディズニー漫画の中に入ったり、街行く人に突然インタビューしながら自分の気持ちを観客に語ったり、子供のころの回想に現在の自分たちを登場させたりする語り口の面白さは堪能できる。

 映画術として、例えばアニーのアパートのベランダで語り合う会話に下心ある心の声を字幕で入れたり、ふたりがセックスをしようとするシーンでは、アニーの魂が身体から遊離し別の場所からそれを見つめていたり、意識の流れを自由に映像で表現している。

 アルヴィンとアニーがキッチンでロブスターと格闘する有名なシーンは、何度かの撮影で自然と笑いが止まらなくなったテイクを使用したということで、ダイアン・キートンが本当に楽しそうに素の笑顔を見せてくれる。
 馴れ初めとなるテニスクラブでの長回しも、シャレた会話が実にいい。ダイアン・キートンの可愛らしさに、男なら誰もが恋心を抱いてしまうだろう。


 映画は、ニューヨークに戻ったアルヴィがアニーとのことを戯曲にして、ふたたびふたりが結ばれると云ったハリウッド式ハッピーエンドのリハーサルシーンで終わる。
 「現実は上手くいかないんだから、せめて芝居くらい完璧を目指すんだ」

 その後NYに戻ったアニーと再会し、ロマンチックなシーンや出会った頃のシーンが回想的に映し出される。友達として語り合い、そして別れたこと。アルヴィは映画のはじまりと同じように、カメラに向い語りかける。
 「ぼくは、彼女がどれだけ素晴らしい女性だったのか、彼女と知り合えてどんなに楽しかったのか気付いた」と………。
 可愛らしく、インテリジェンスで、洗練されたダイアン・キートンの笑顔が素敵だからこそ、この苦い終わり方がとてもいい。


 ポール・サイモンが人気歌手の役で出演したり、シェリー・デュヴァルにローリング・ストーン誌の記者役でディラン論を言わせたり、また、当時は無名だったジェフ・ゴールドブラム(パーティの客)やシガニー・ウィーバー(フェリーニ批判をする男のデート相手)、公園を散歩するトルーマン・カポーティ本人など、今では豪華なキャスティングも興味深いだろう。

 ポール・サイモンのパーティ・シーンで「A HARD WAY TO GO」という曲が聴こえてくる。これは英国ブルーズ・ロック・バンドの雄サヴォイ・ブラウンの曲のはずなんだが、どう聴いてもフュージョンジャズ。後年、DVDでクレジットを探してみると、ティム・ワイズバーグというフュージョン系のフルート奏者の演奏だった。



1978-04_アニー・ホール


「ボギー!俺も男だ」*ハーバート・ロス

1973-14_ボギー!俺も男だ
PLAY IT AGAIN, SAM
監督:ハーバート・ロス
脚本:ウディ・アレン
音楽:ビリー・ゴールデンバーグ
出演:ウディ・アレン、ダイアン・キートン、トニー・ロバーツ

☆☆☆★ 1972年/アメリカ/89分

    ◇

 最初に観たウディ・アレン主演の映画。それ以前に『007/カジノ・ロワイヤル』を観ているがこれは別物って感じで、本作でコメディアンとしてのウディを認識したことになる。

 『カサブランカ』のハンフリー・ボガードことボギーに心酔している映画ライターのアラン(ウディ・アレン)は、妻から「一緒にいてもつまらない」の理由で離婚したばかり。友人夫婦のディック(トニー・ロバーツ)とリンダ(ダイアン・キートン)から新しいガールフレンドを紹介されても上手くいかない。
 妄想癖のあるアレンは、ときどき現れるボギーの亡霊のアドバイスを聞いたりして孤軍奮闘。それでも恋人は出来ず、いつしか、彼を心配してくれるリンダに恋心を抱くようになる。リンダの方も、夫に放っとかれて欲求不満。ふたりの趣味も合うということで…………。

 チビでハゲで近眼で、神経質、見栄っ張りの自意識過剰な男のラブコメディ。監督はハーバート・ロスだが、シナリオがウディ・アレンということで『アニーホール』以降のシニカルなウディ映画の原型のような映画で、これ以降共演者もお馴染みの顔ぶれになってゆく。

 原題「PLAY IT AGAIN, SAM」は、『カサブランカ』のなかでバーグマンがピアノ弾きサムにボガードとの思い出の曲「As Time Goes By」を頼むときの有名なセリフ。

「スケアクロウ」*ジェリー・シャッツバーグ

1973-16_スケアクロウ
SCARECROW
監督:ジェリー・シャッツバーグ
脚本:ギャリー・マイケル・ホワイト
音楽:フレッド・マイロー
出演:ジーン・ハックマン、アル・パチーノ、ドロシー・トリスタン、アイリーン・ブレナン、リチャード・リンチ

☆☆☆☆ 1973年/アメリカ/113分

    ◇

 アウトローな人間が主人公なアメリカン・ニューシネマにおいて、この作品は、ジーン・ハックマンとアル・パチーノの力演に魂を揺さぶられる人間ドラマとなっている。
 '73年のカンヌ映画祭のグランプリを獲ったロードムービーの大傑作。


 暴行傷害の罪で刑期を終え刑務所から出てきたマックス(ジーン・ハックマン)は、洗車屋を始めるためにピッツバーグへ向う途中。
 長い船乗りの生活から足を洗ったライオン(アル・パチーノ)は、置き去りにしたままの妻と一度も会ったことのない子供に会うためにデトロイトを目指している。子供は男の子なのか女の子なのかさえ知らない。
 神経質で喧嘩っ早いマックスと、陽気で人なつっこいライオンという正反対の性格のふたりだが、ヒッチハイクの途中で出会い意気投合し、旅の道連れとなる。
 まずは、マックスのたった一人の肉親である妹コリー(ドロシー・トリスタン)を訪ね、コリーと同居している女友達と4人で盛大に飲み食いをするが、町の連中と大喧嘩になってしまう。マックスとライオンは留置場に入れられ、30日間の強制労働を科せられた。ライオンがホモの男に襲われ、マックスが助けたりする日々が過ぎ刑期を終え、また旅に出る。
 たびたびハメをはずすマックスと、それを案じるライオン。純粋で心優しいライオンに、マックスは次第に影響を受けるようになってきた。
 デトロイトに着いたふたり。ライオンは勇んで家の前の公衆電話から妻アニーに電話をかける。しかし、再婚していたアニーは5歳になる男の子をかまいながら必死に嘘をつく。
 「子供は出産前に死んだわ。階段で転んだの。生まれていれば男の子だったでしょう。洗礼も受けていないので、あの子は天国へも行けないわ」
 ショックに打ちのめされるライオン。これまで片時も離さなかった子供へのプレゼントを、公衆電話に置いたまま歩き出す。
 心配そうなマックスに笑顔を見せるライオン。しかし、ライオンの精神はおかしくなっていた。
 誰にも心を許さなかったマックスは、開業資金をすべてライオンの入院費にあてることを決意する。永遠に友達と一緒にいると心に誓ったのだった。

    ◇

 オープニングの出会いは印象的。そして、それぞれが孤独を抱えている男の哀しさを分かち合い、心を解放してゆく過程と友情を高める結末には、当時観たときから何度でも涙腺が緩むのである。

 スケア=脅かす、クロウ=カラスで「案山子」という意味だが、「かかし」の意味合いとしては「見かけ倒し」とか「みすぼらしい人」にも使われる言葉で、ほかにも一本足でじっとしていることから「無駄骨を知らずに一生懸命努力する者」にも使われる。
 映画の中ではアル・パチーノ扮するライオンが「カラスにまで馬鹿にされているが、そこに立てた人のために頑張っているので、カラスも同情してその領分には入らないようにしている」と云っている。それは、人を信じ、人を笑わせながら上手く生きてゆくことが、人間の大切な生き方だと云っているようだ。
 だから、人を信じることができず粗暴で人と争うことで自分をガードしていたジーン・ハックマン扮するマックスが、ライオンに感化されていく過程を見事に演じ、ラストの感動シーンが生みだされる。
 名作中の名作だ。

「大列車強盗」*バート・ケネディ

 以下作品は、映画前売券のコレクションとして記録するのみです。

1973-11_大列車強盗
THE TRAIN ROBBERS
監督:バート・ケネディ
脚本:バート・ケネディ
音楽:ドミニク・フロンティア
出演:ジョン・ウェイン、アン・マーグレット、ロッド・テイラー、ベン・ジョンソン

☆☆ 1972年/アメリカ/92分

    ◇

 列車強盗で奪われた金塊の懸賞金5万ドルをめぐって、金塊争奪戦をユーモアたっぷりに描いた古き良きウエスタン。

 美しい未亡人アン=マーグレットのために、存在感たっぷりなジョン・ウェインと名脇役ベン・ジョンソンら心優しきガンマンたちが立ち上がる物語は、あっと驚くラストが待っているわけで…………。


「カンタベリー物語」*ピエル・パオロ・パゾリーニ

 以下作品は、映画前売券のコレクションとして記録するのみです。

1973-01_カンタベリー
I RACCONTI DI CANTERBURY
監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ
脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:ニネット・ダヴォリ、マイケル・バルフォア、ラウラ・ベッティ

☆☆☆ 1971年/イタリア・フランス/112分

    ◇

 ベルリン国際映画祭金熊賞受賞作で、日本公開は1973年。
 14世紀のイギリスの作家ジョフリー・チョーサーの原作から8編のエピソードを映画化したもので、パゾリーニ「性の三部作」(『デカメロン』『千夜一夜物語』)の2作目にあたる。
 短編オムニバスの艶笑物語としてとても見やすい作品だが、エロ、グロ、下ネタ満載なのでお薦めかと云われれば微妙である。
 当時の上映はボカシだらけだったと思うが、現在ではDVDは無修正らしい。

「爆走!」*マイケル・タクナー

 以下作品は、映画前売券のコレクションとして記録するのみです。

1973-13_爆走

FEAR IS THE KEY
監督:マイケル・タクナー
原作:アリステア・マクリーン
脚本:ロバート・キャリントン
出演:バリー・ニューマン、スージー・ケンドール

☆☆ 1972年/アメリカ/103分

    ◇

 イギリスの冒険小説家アリステア・マクリーンの原作を『バニシング・ポイント』のバリー・ニューマン主演で映画化したもので、メキシコ湾に沈んだ莫大な宝石をめぐって展開するアクション映画。特にカーチェスが見もの。

 監督はTVドキュメンタリー出身のマイケル・タクナー。リチャード・バートン主演の犯罪ドラマ『ロンドン大捜査線』で注目された監督だが、これ以降名前を聞かなくなった。

「お引越し」*相米慎二監督作品



監督:相米慎二
原作:ひこ・田中
脚本:奥寺佐渡子、小此木聡
音楽:三枝成彰
出演:田畑智子、中井貴一、桜田淳子、笑福亭鶴瓶、青木秋美(現・遠野なぎこ)、森秀人、千原しのぶ

☆☆☆☆ 1993年/日本ヘラルド、アルゴ・ピクチャーズ/124分

    ◇

 ひこ・田中の児童文学小説を原作に、家族の崩壊と少女のこころの成長を描いた傑作。2013年のTVドラマ『夜光観覧車』(湊かなえ原作)で家族の崩壊を描いている脚本家・奥寺佐渡子の第1作目にあたる。
 両親の間で揺れ動く少女の行動を絶妙の長回しで見せていくホームドラマ的展開だが、安易に家族を再生させないのが相米慎二ワールドである。


 漆場レンコ(田畑智子)は京都鴨川近くに住む小学6年生。両親が離婚を前提に別居することになり、父親のケンイチ(中井貴一)が家を出て行く。
 母親のナズナ(桜田淳子)と一緒に新生活をはじめるレンコだが、いまいち実感が湧かない。勝気なナズナには不満がいっぱいで、次第にレンコの心の内にザワザワしたものが湧いてくる。
 同じように両親が離婚している転校生のサリーこと橘理佐(青木秋美)のことで級友たちと喧嘩したり、自分の存在を両親に認めさせようと篭城作戦を敢行したり、次第にレンコは学校にも家にも居場所を見いだせなくなってくる。
 ある日、昨年も行った琵琶湖への家族旅行に行けば、また元の平和な家族に戻れるのではないかと考えたレンコは、勝手に電車の切符やホテルの予約をする。
 ホテルのロビーで、もう一度3人でやり直したいと言い出すケンイチにナズナが怒りだす。いたたまれなくなったレンコはホテルを飛び出し、祭りをしている湖畔の町を彷徨う。
 そこで砂原という老人と出会い温かい言葉をかけられ力を得たレンコは、火祭りが最高潮を迎える中、ひとり森のなかに迷い込んでゆく……。

    ◇

 田畑智子のデビュー作である。
 実家の京都・祇園の老舗料亭に、たまたま来ていた相米監督から「彼女でなければ撮らない」と見初められた11歳の田畑智子が、とにかく素晴らしい。この年の新人女優賞を数多く受賞しているのは当然であろう。

 離婚する父と母の間で、小学生の女子の揺れ動く気持ちを無邪気に見せる前半から、様々な経験を経て両親と自分自身を乗り越え少女に変貌するまでの表情の移ろいは、演出の妙だけではなく田畑智子のセンス=存在感に尽きる。
 後年のインタビューによると、とにかく何処が悪いか指示もないまま、何度も何度も繰り返しの連続で、「タコ」(主演女優は必ず浴びせかけられる相米監督の口癖)「ガキんちょ」と罵られながら動いていたという。
 3ヶ月のリハーサル中には、中井貴一とボクシングごっこをするシーンのために立命館大学のボクシング・ジムに通ったという。女の子と父親の遊びのボクシングに、そこまで要求する冒頭のそのシーンは、11歳の女の子には見えないサマになった構えとシュート。母親桜田淳子へは全然子供らしくないジャブを浴びせるのだ。


 映画の冒頭は『家族ゲーム』の横一列の食卓に匹敵するような異様な夕食風景。二等辺三角形の変形食卓の底辺の位置にレンコが座り、頂点をカメラに向けてナズナとケンイチが向かい合わせに座っている。鋭角な構図から、大人同士の敵意と愛情の喪失感が象徴される見事な図である。

 レンコは父が大好きである。父が家を出て行く日の昼休み。学校を抜け出し様子を見に、全速力で帰ってくる。走る、走る、走り続けるレンコを、横移動のカメラが捉える。
 河原で転がっている父を蹴飛ばし、いつもしていたボクシングの練習で戯れる。二人がこれまで続けてきた触れ合いもこれでおしまい。レンコは「コーチ! 長い間お世話になりました!」と頭を下げる。
 ケンイチの荷物を乗せた軽トラックが走り出すと、レンコが追いかける。軽トラックからのカメラが走るレンコを捉え、カーブでスピードの落ちた頃合いに、レンコが荷台に飛び乗る。田畑智子の根性入ったシーンだ。

 学校の理科室で火事を起こしたレンコをナズナと担任の先生(笑福亭鶴瓶)が追いかける。延々と町中を走り抜けるレンコ。ここでも全力疾走の田畑智子。ついにはレンコだけがバスに乗車し、最後部席でしらっとした顔を見せる。とても過酷に走りまわされている田畑智子である。

 坂道を、レンコと同級生のサリーが1台の自転車を押しながらゆっくり登ってくる。サリーが離婚したパパに逢いにいった話をする。パパが結婚した新しい女のいる家に、どんな顔をしているか見に行ったのだという。だけどいなかったという。
 坂の上には、レンコたちより小さな子供らが遊んでいる。
 「どこ行ったん?」
 「病院」
 「え?」
 「赤ちゃんが出来たん」
 途端に土砂降りの雨が降ってくる。
 坂のうえから、レンコが走り出す。今来た坂を、全速力で下って行く。
 圧巻の長回しである。

 レンコの一生懸命さは田畑智子の躍動感と運動量で示され、動きのないシーンにおいては田畑智子の微妙な表情の動きがレンコの内面を表出させ、田畑智子の肉体は台詞以上を語ってくる。

 「満月 空に満月 明日は愛しいあのこに逢える」

 相米監督の演出のひとつに、よく歌を口ずさませるシーンがある。十朱幸代の「ちゃんちきおけさ」(『魚影の群れ』)や、志水季里子の「赤い靴」(『ラブホテル』)のように切なさが増幅してくるのだが、本作では、幼い田畑智子に「がんばれ、みんながんばれ」と井上陽水の歌でレンコの背中を押している。

 映画の終幕、森を彷徨うシーンは台本にはなかったという。物語のリアリズムを無視し、ホームドラマから幻想詩に逸脱する展開が、この映画の魅力のひとつでもある。
 琵琶湖畔に辿り着いたレンコの目の前に、過去の幸せだった家族の時間の情景が現れる。『フェリーニのアマルコルド』を連想する幻想的で荘厳な領域は、極めて美しいシーンだ。
 幻視するレンコはあの頃には戻れないことを悟り、過去の自分を抱きしめ決別する。それは父と母への決別でもあろう。
 新しい自分の誕生に「おめでとうございます………おめでとうございます」と、過去の自分に何度も何度も宣言するレンコの表情は、もはや子供の顔ではない。

 エンディングとクレジットタイトルも長回し、そして早変わり。
 街路樹が並ぶ遊歩道に、出演者たち(田畑智子の実家族までも)が様々な恰好で散らばり、その間をレンコが渡り歩く。

 「こんにちは。どこ、行きはるんえ?」
 「未来へ」


[相米慎二作品]
★ションベン・ライダー★
★魚影の群れ★
★ラブホテル★
★台風クラブ★

「台風クラブ」*相米慎二監督作品

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監督:相米慎二
脚本:加藤祐司
音楽:三枝成彰
挿入歌:「暗闇でダンス」「翔んでみせろ」Barbee Boys
    「Feel No Way」「Children of the World」
     P.J & Runnings
出演:三上祐一、紅林茂、松永敏行、工藤夕貴、大西結花、会沢朋子、淵崎ゆり子、谷川龍子、三浦友和、尾美としのり、鶴見辰吾、寺田農、小林かおり、きたむらあきこ、石井富子、佐藤充、佐藤浩市(友情出演)

☆☆☆★ 1985年/ディレクターズ・カンパニー/東宝、ATG/115分

    ◇

 ディレクターズ・カンパニーが公募したオリジナル・シナリオを相米慎二が担当。
 『魚影の群れ』『ラブホテル』のあとに(『ラブホテル』は本作の後に撮影されたが公開はほんの少し前だった)またしても「ガキの映画」かと思いきや、本作は、大人への扉を開きかけた中学生の思春期における不安定な心理と、台風の通過により学校に閉じ込められ高揚する少年少女らのエネルギーの炸裂を活写した傑作である。



 東京近郊のある町。木曜日、真夜中の中学校のプール。ひとり男子が、時折ポシャと音をたてながら、ゆっくりゆっくり泳いでいる。

 静寂のなか突然、更衣室から数人の女子生徒が水着姿で乱入してくる。理恵(工藤夕貴)、泰子(会沢朋子)、由美(谷川龍子)、みどり(淵崎ゆり子)、美智子(大西結花)の5人だ。持ち込んだラジカセのスイッチを入れると、大音量でバービー・ボーイズの「暗闇でダンス」が流れてくる。音楽に合わせ身体をくねらせ踊る少女たち。
 理恵がプールの中にいる明(松永敏行)を見つけ、泰子の指示で明はパンツを脱がされ、コースロープで身体を巻かれて溺れてしまう。
 近くをランニングしていた恭一(三上祐一)と健(紅林茂)が人工呼吸をして明は正気に戻り、みどりに電話で呼び出された数学教師の梅宮(三浦友和)からは叱られはするが、その場の話だけで片付いた。

 金曜日
 団地に住んでいる理恵と、近所の幼馴染み恭一が手を繋いで登校。恭一は「泰子たちとはあんまり付き合うなよ」と理恵を嗜める。
 梅宮の授業中。生徒たちはみんな好き勝手な事をしている。頭が少し幼い明は、鼻の穴に何本もの鉛筆を詰め込み鼻血を出す。
 そんな時、教室に中年の男女が押し掛けてきて、梅宮が自分の娘に金を貢がせているのに何故結婚しないのかと迫る。
 自習になった教室では、泰子とみどりと由美がベランダに出て「やなもの見ちゃったな」と話し合っている。
 下校時間。理恵は勉強をしている恭一の側で「台風来ないかなぁ」と話しかけている。窓枠に頭を挟み「痛い痛い」とふざける理恵に、恭一は「お前、最近ヘンだな」と呆れる。黒板にタヌキの絵を描きながら「どこかに行こうよ」と恭一を誘う理恵。拒否する恭一は「お前ヘンだな…最近」と再び言いおいて教室を出て行く。
 
 帰宅した恭一は東大に通う兄(鶴見辰吾)に哲学を問い、その夜、ランニングのついでに健の家を尋ねる。アル中の父親(寺田農)がいるだけのバラック家。建築用の足場の上で健は明と煙草を吸っていた。明が、泰子と由美が夜の教室で抱き合っていたのを目撃したと言う。「レズってどうするんだ?」と恭一。「う~ん………指入れるだよ」と健。
 女の話は好きな女子生徒の話になる。明は美智子が好きだと言えば、健も「俺もだ」と答える。
 健は、化学の実験中に美智子の制服の背中に熱した銅の欠片を入れて火傷をさせ、謝る健を尻目に通りかかった恭一にすがりついて泣いていた美智子を思い出していた。
 「理恵といい、なんでお前だけモテるんだ?』

 土曜日
 理恵を迎えに来た恭一だが、何度ブザーを鳴らしても返事がなかった。
 寝坊に気づいた理恵は急いで制服に着替えるが、突然諦め、スカートを脱ぎ、母親の部屋の布団の中に入りマスターベーションをはじめる。
 そして、学校に向う理恵は突然、踵を返しどこかに向う。

 学校では、泰子とみどりと由美が梅宮の授業には出たくないとボイコット。部室を出て行く。優等生の美智子は梅宮に昨日の説明を求め、授業が中断することで他の生徒たちと喧嘩がはじまる。

 いつしか、窓の外は風が強まり雨が降り出す。
 演劇部の部室で、外から戻ったみどりがびしょ濡れになった制服を脱ぎレゲエ(「Feel No Way」)に合わせて踊りはじめ、泰子と由美はレズごっこをはじめる。

 校内は台風の接近を知らせる放送により生徒たちは下校。
 梅宮との話合いをひとり教室で待っている美智子。
 そこに健が現れ、美智子は逃げ回る。美智子に惚れている健は彼女を職員室に追いつめ、彼女の制服を引き裂くのだが、美智子の背中の火傷の跡を見た途端、急に青ざめ暴れ狂うのだった。

 いつの間にか学校は全て施錠されてしまい、美智子と健を取りなす恭一らと、泰子、みどり、由美の6人だけが校内に取り残されていた。
 
 その頃、理恵は東京の原宿にいた。
 街で声を掛けてきた青年(尾美としのり)のアパートについて行き、無邪気に自分のことを話しているのだった。
 「わたし嫌なんですっ。閉じ込められるの。閉じ込められたまま年をとり、それで土地の女になっちゃうなんて、耐えられないんですっ」
 そして突然「帰ります」と言い出し、「いろいろありがとうございました。声を掛けてくれて感謝しています。さようなら」と土砂降りの雨の中、駅へ走り出す。
 しかし電車は、土砂崩れで不通になっていた。

 学校ではみどりと恭一が梅宮の自宅に、自分たちが学校に閉じ込められているのでどうしたらいいでしょうかと電話を入れるが、酔っぱらっている梅宮には通じない。
 「先生、ぼくは一度、あなたと真剣に話してみたかった。あなたは悪い人じゃないけど、でも、もう終りだと思います。ぼくはあなたを認めません」と宣言する。
 梅宮が「いいか若造。今はおめぇ、どんなに偉いか知らんけど、15年経てばこの俺になるんだ。あと15年の命だ」と言い放つと、恭一は「ぼくは、先生のようには絶対になりません、絶対に」と電話を切る。

 体育館に移動した6人。壇上に上がった泰子とみどりと由美と美智子は、ラジカセのレゲエ(「Children of the World」)に合わせてストリップを始め、健も恭一も一緒になって服を脱ぎ下着姿で笑い興じる。
 一旦雨の上がったグランドに出た6人は「もしも明日が」を大合唱し、再び降り出した雨の中では下着も脱ぎ捨て全裸になって踊り狂うのだった。
 深夜、制服に着替えた皆は、「台風が過ぎ去ったらどこかへ行こう」と話し合い眠りに就く。
 ひとり、起きて夜明けを待つ恭一。

 日曜日 朝
 みんなを起こした恭一は、みんなの日常の無目的さを指摘し「俺たちには厳粛に生きるための、厳粛な死が与えられていない。みんなが生きるために、俺が死んでみせる」と、窓から身を投じる。

 月曜日 朝
 台風一過の青空の中、理恵が登校してくる。
 途中で会った明から「今日は学校は休み」と聞かされるが、プールに泳ぎに行くという明について理恵も学校に向う。

 校門からみる木造の校舎は、朝陽を受けて輝いている。
 「まるで金閣寺みたい」と叫ぶ理恵。
 水たまりに逆さに映る校舎が、ジャブジャブとぬかるみを渡る二人の姿を迎えて映画は終わる……。


    ◇


 必ず自分たちも大人になるのだと認識しながらも、それに抵抗する力と、妥協する力の配分が上手くいかなくてどうしようもなくなる気持ちが、台風のエネルギーによって次第に高まっていくのが生々しく伝わってくる。
 実際、台風が来るというとワクワクして、何でもいいからぶち壊せって気持ちの高ぶりを感じていた時代をノシタルジックに思う自分がいる。
 だから理恵がポツリと言う「台風、来ないかなぁ」の台詞は見事にツボに嵌る。

 大人でもなく、子供でもない身体の中から湧き出てくる“性”と“生”。芽生えは大人になれば他愛ないことも、本人たちにとって深刻な気持ちが、あるところで暴力になったり、自己愛になったりする。彼らのエネルギーが哀しみを潜め画面を漂っている。時折バックに聞こえる水の音とか、雨の匂いを感じさせる木造校舎とか、風の音さえ官能的な情景になっている。

 愛情と狂気の境を見失った“性”は、健が美智子に対する行動で表現される。
 美智子が閉じこもる職員室の木の扉をガンガンと蹴りつづける健。長回しによる執拗なカメラは、健のいる廊下側から美智子のいる室内に移り、蹴られて穴のあいた隙間をカメラが潜り、健の足元を再び撮る長いシーンとなる。「お帰りなさい。ただいま」と呟きながら延々と蹴る健の姿には、もはや自分自身では抑えることが出来なくなった気持ちが痛い程見てとれる。

 オリジナルのシナリオと比べてみると、かなりの箇所を端折っている。特に東京に行った理恵のシーンは、シナリオでは電車が不通で帰れなくなったことで、ふたたびナンパ青年の部屋に戻ってくる。そこで恭一の話を詳しくすることで、恭一の自殺に意味付けがなされるのだが、相米監督は説明は不要として全面カットしている。
 自殺って本人以外には絶対に理解できるものではない。判らないからわからないようにした演出はこれでいいと思う。美化するわけでもなく、誰にだってある不可解で実感できない心象は、説明できるものではないのだから……。
 シナリオにおいては、グランドに落ちた恭一を泰子が抱きかかえるのだが、相米監督は『犬神家の一族」のパロディのように恭一の身体を逆さの両足屹立にし、ブラックユーモアで死をも吹き飛ばしてしまった。

 それまで真面目な好青年の役しか演じてこなかった三浦友和が、この作品では生徒たちから信頼と反発を得る無責任な教師役を演じている。
 恋人が台所で料理をしている手前の部屋で寝転がってクダ巻いている三浦友和が、近よってきた恋人に足を絡ませ倒して抱きつく長回しシーン。ほとんど大人が出てこない本編において、模範にもならない大人のダメさ加減がいい。

 中学生の男子女子の喫煙シーンが何度もあったり、少女同士のキスやオナニーとレイプ紛いのシーン、果ては少年少女たちが裸になったりと、そういった騒乱をリアルな中学生として14歳から17歳の子役・俳優たちが見せてくれる。今ではこの年代の子供たちには演じさせられない規制があるだろうが、この時代のこの魅力は何にも代えられない個性と瑞々しさとして輝きを放っている。
 因みに、恭一役でデビューした三上祐一は鶴見辰吾の実弟で、兄弟での共演シーンはリアルそのものだったのだろう。

 友情出演とクレジットされた佐藤浩市は、駅員としてワンシーンに映るだけである。




[相米慎二作品]
★ションベン・ライダー★
★魚影の群れ★
★ラブホテル★