TEA FOR ONE

まぁお茶でも飲みながら気ままに、好きなことを、すこ~しネタバレしながら、のんびりと………。

脚本家・高田純氏の訃報

 脚本家の高田純氏が、先週4月21日に心不全でお亡くなりになった。
 
 TVの構成作家からシナリオ・ライターに転身された氏の作品は、結構観ている。

 田中登監督が東映で撮った『安藤昇のわが逃亡とSEXの記録』('76)。中島葵と泉谷しげるの音楽が印象に残っている。
 川谷拓三と夏純子の『河内のオッサンの唄』('76)、曽根中生監督の『ワニ分署』('79)はイマイチだったが、80年代に入っての日活ロマン・ポルノ、美保純主演の『ピンクのカーテン』('82)、風祭ゆき主演の『闇に抱かれて』('82)、志水季里子初主演の『ブルーレイン大阪』('83)など秀作揃い。
 
 そして、神代辰巳監督との『恋文』('85)、『結婚しない女』('86)………
 自身のブログには、ショーケンと神代監督の興味深い話がいっぱい書いてあった。
 ショーケンの映画では『JOKER 疫病神』('98)でスッタモンダな事があったとも。この作品、ほかの出演者ともども(北村一輝、萩原流行、中山麻理、本田博太郎、片岡礼子、渡部篤郎)どこかVシネマっぽくて。

 宇崎竜童初監督で内田裕也主演の『魚からダイオキシン!』('92)では原作に名前を連ねていたし、薬師丸ひろ子と松田優作の『探偵物語』('83)の脚色にも携わっていたらしい。

 TVドラマでは、島田荘司原作・鹿賀丈史主演の「吉敷竹史シリーズ」を手掛けたのだが(3作放映)、吉敷の分かれた妻・加納通子(余貴美子)のエピソード(長編原作「涙ながれるままに」)まで至らなかったことが残念。

 享年63、ご冥福をお祈りします。
 
★闇に抱かれて★

★ブルーレイン大阪★

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「帰らざる日々」*藤田敏八監督作品



監督:藤田敏八
原作:中岡京平「夏の栄光」
脚本:藤田敏八、中岡京平
撮影:前田米造
音楽:アリス
主題歌:「帰らざる日々」アリス
出演:江藤潤、永島敏行、浅野真弓、竹田かほり、根岸とし江、朝丘雪路、中村敦夫、吉行和子、加山麗子、中尾彬、小松方正、草薙幸二郎、丹波義隆

☆☆☆☆ 1978年/日活/99分

    ◇

 1977年の第3回城戸賞で初の入選作となった中岡京平のオリジナル・シナリオ「夏の栄光」を、藤田敏八監督は72年の夏の部分に焦点をあて、信州の山の夏の、若々しく力強い日々を瑞々しく描いた秀作。


 1978年夏、東京、早朝の新宿駅。
 キャバレーのボーイをしながら作家を目指している野崎辰雄(永島敏行)は、父の突然の死を告げる電報を受け取り、同棲中のホステス蛍子(根岸とし江)に訳も言わずに長野県飯田市に向かう電車に飛び乗った。

 甲府を過ぎたころ、車内で高校時代の級長・田岡(丹波義隆)と婚約者(加山麗子)に会い、彼が防衛庁(当時)に入り間もなく結婚することを聞かされる。同級生の婚約者を見ているうちに、辰雄には6年の歳月の記憶が甦ってきた。
 電車の進行に合わせて辰雄の回想が始まる。

 1972年夏、飯田市。
 辰雄は、若い女をつくった父(草薙幸二郎)と別居しバーを経営している母・加代(朝丘雪路)とふたり暮らし。高校3年の辰雄は、仲間たちとのたまり場になっている喫茶店でウエイトレスをしている年上の真紀子(浅野真弓)に密かな想いを寄せていた。
 そんな辰雄の前に、真紀子に金の無心をする同じ高校の工業科に通う隆三(江藤潤)が現れた。
 辰雄の真紀子への気持ちを知った隆三は、彼をからかい、二人は喧嘩となるが、隆三と真紀子がいとこ同士と知らずにムキになって挑んでくる辰雄に好意を持ち始め、ふたりの仲を取り持とうとする。
 高校卒業後は東京に出ようと考える辰雄と、高校を辞めて競輪選手になるために競輪学校に入る夢を持つ隆三。ふたりの間には、他人には踏み込めない友情が芽生えてくる。

 母親のバーで知り合った侠客・戸田(中村敦夫)に連れらた小料理屋(吉行和子)で、辰雄に好意を寄せていた中学の同級生・由美(竹田かほり)に再会。そして初体験。

 夏休みはいろんな出来事があった。

 辰雄は隆三に誘われ天竜峡で舟運びのアルバイトを始め、力仕事のなかでふたりの絆は強まり、全てが順調な日々が続いていたのだが、夏祭りの夜ふたりは、真紀子が一年も前から妻子のある男・中林(中尾彬)と付き合っていたこと、そして、妊娠をしていることを知る。
 翌日、二日酔いのままふたりは炎天下で舟運びの仕事をしていた。突然、吊り上げられた舟が落下し、辰雄を助けようとした隆三は、舟の下に脚を挟んでしまう。

  …………………

 電車が飯田駅に到着。こっそり電車に乗り込んでいた蛍子とともに母親に迎えられた辰雄は、父親を死なせた車を運転していたのが隆三で、彼もまた意識不明の重体だと知らされた。

 「お前、どこまでドジなんだ…………俺を助けようとしたことがドジの始まりで………いや、そうじゃない そもそも俺と出会ったことが間違いだったんだ…………そう、俺が、お前のいとこに惚れなければ……………………」      

 父親の死には涙も見せなかった辰雄は、昏睡状態の隆三の前で6年前の苦い想いを噛み締め、涙をためて声をかける。病室の隅には、使い古された義足が立て掛けられている。

 父親の葬儀の晩、同級生から真紀子は北海道に渡ったと聞かされた。
 そして、隆三が死んだことを告げられる。

 翌朝、かつて隆三と競い合いながら走った山道を、歯を食いしばりながら走る辰雄と、その後ろを自転車で追う蛍子の姿があった………。

    ◇

 1978年《現在》と1972年《回想》のふたつの夏を交錯させながら描く青春の日々。
 70年代の藤田敏八監督の青春映画のなかでは、とても好きな作品だ。

 『八月の濡れた砂』は一つ上の世代への憧れのようなところがあったし、『十八歳、海へ』と『もっとしなやかに、もっとしたたかに』はシラケ世代と崩壊する家族の映画だったし、青春フォーク3部作と云われる『赤ちょうちん』や『妹』はヒロイン映画で、『バージン・ブルース』は80年代の『スローなブギにしてくれ』『ダイヤモンドは傷つかない』と同様の中年の郷愁映画だった。

 この作品には、当時主人公が同い年と云うことや、高校3年の時に年上の短大生とつき合っていた経験や、20代の時に友人を亡くした哀しみが、自分自身の青春像とだぶらせることができ、心打たれたのは当然だった。
 東京の侘しいアパート暮らしの辛い現実と、ひと夏の淡く切ない想い出が、《あの頃》という普遍的な青春のキイワードとして、誰のこころにも小さな痛みを感じさせる映画であろう。
 
 タイトルバックとクロージングに流れるアリスの1976年発売の同名ヒット曲は、荒木一郎が1975年に発表した『君に捧げるほろ苦いブルース』の歌詞とメロディを引用したとして騒動にもなった。
 ひどく直接過ぎて感傷的な谷村新司の歌詞よりも、亡くなった愛猫のために書かれた荒木一郎の歌詞の方が断然好きなのだが、この映画に関しては「Bye Bye Bye 私のこころ Bye Bye Bye 私のいのち Bye Bye Bye Bye My Love」のフレーズが、悔しいけれど涙なしではいられなかった。

 本作の併映は浅野温子のデビュー作『高校大パニック』。宣伝的に『高校大パニック』の方に力が入っていたような気がするが、上映はロマンポルノが掛かる劇場だったので客足はイマイチだった。
 ちなみに、マドンナの浅野真弓は柳ジョージと、竹田かほりは甲斐よしひろと、共に80年代前半に結婚し引退している。


「狼たちの午後」*シドニー・ルメット

dogdayafternoon.jpg

DOG DAY AFTERNOON
監督:シドニー・ルメット
脚本:フランク・ピアソン
撮影:ヴィクター・J・ケンパー
挿入歌:「過ぎし日のアモリーナ」エルトン・ジョン
出演:アル・パチーノ、ジョン・カザール、チャールズ・ダーニング、ジェームス・ブロデリック、ペネロープ・アレン、クリス・サランドン、キャロル・ケイン、サリー・ボイヤー

☆☆☆☆★ 1975年/アメリカ/125分

    ◇

  ニューヨークのブルックリンで実際に起こった事件を題材にした本作は、ベトナム戦争の後遺症や人種・同性愛問題など、当時の病んだアメリカの断面を生々しく見据えた秀作である。シドニー・ルメット監督の作品のなかでも大好きな1本だ。

 1972年8月22日、気温36度のうだるような暑さのニューヨークの一角。その日の午後2時47分、ブルックリン三番街のチェイス・マンハッタン銀行に3人の男が強盗に押し入った。
 仕事は10分もあれば片がつくはずだった。しかし現実は上手くいかない。若いロビーは怖じ気づき逃げ出し、金庫にあるはずの大金も現金はたったの1100ドルしかない始末。手際の悪さもあり、いつのまにか銀行は250人の警察隊とFBIに包囲される事体になっていた。
 9人の人質(支店長と老警備員以外は全員が女性)を楯に銀行に立て篭るソニー(アル・パチーノ)とサル(ジョン・カザール)。
 やがてテレビ局が中継にやってくる。野次馬が大挙して集まる。直通電話で市警のモレッティ刑事(チャールズ・ダーニング)との交渉が始まり、犯罪史上最も奇妙な暑い午後が始まった……。

    ◇

 冒頭シーン、エルトン・ジョンの「過ぎし日のアモリーナ」が軽快に流れ、ニューヨークの夏の日の街が映し出される。マンハッタンで過ごすビジネスマンやハイソサエティな人々、コニーアイランドやスタッテン島で余暇を楽しむ老人たち、ブルーカラーの労働者やゴミが散乱する道端に座り込む下級階層の人間たち………。
 そんなスケッチシーンに、『スター誕生』を上映している映画館の前をソニーの妻子たちが歩いている。これから銀行に押し入る夫が民衆のヒローになってしまうアメリカの屈折感を皮肉っているのだろう。

 西部劇の時代や1950年代のギャングたちが銀行を襲撃していたのは遠い昔。70年代ともなると余程のプロでないと銀行を襲撃などしないだろう。素人が手を出すような犯罪でないのを承知でも、後を絶たないのは銃社会の悲劇。しかし、やはりそこは素人。このソニーたちの、なんとも間の抜けた強盗ぶりよ。

 「ちゃんと計画したの? ただの思いつきなの?」

 警官隊に囲まれ呆然としているソニーは、ベテラン職員のシルビア(ペネロープ・アレン)にたしなめる。支店長からは「金を持ってスグに行けと言ったのに」と云われる始末。
 人質たちが全員、それほどの恐怖を感じていないという人間喜劇の一面を見せるこの脚本の巧さ。そして映画は、ほとんどが銀行内と通りを挟んだ警察との間で展開する“舞台劇”として緊迫感を作りだしていく。

 人質側はこんな面白いこと滅多にないぞと事件を受け止めるように変わる。それは、銀行内での加害者たち(ソニーとサル)と、被害者となる職員たちとの他愛もない会話によって生まれる連帯感、いわゆるストックホルム症候群が発生する人間喜劇である。
 特に、肝っ玉の据わった被害者ペネロープ・アレンと、肺がんを恐れる銃を持った制圧者ジョン・カザールとの禁煙論議は、人間の強さと弱さの矛盾を突いていて面白い。

 人質がいるために警察が手を出せないことをいいことに、ソニーは時々銀行から通りに出てモレッティ刑事と交渉する。ソニーが警官隊に発する啖呵に、野次馬たちが応える。ソニーは、今や民衆やマスコミからヒーロー扱いだ。

 「アッティカ! リメンバー・アッティカ!」

 ソニーの、その場の思いつきのシュプレヒコールに、野次馬たちが呼応する。
 なぜ市民たちがソニーを英雄視したのか、それには二つの要因がある。
 ひとつが1971年9月、ニューヨーク州北部にある州立アッティカ刑務所で起こった差別待遇に抗議した大規模な暴動事件だ。世論の激しい非難を無視して鎮圧に当たった州兵によって、多くの黒人囚人が殺されたのは、まだ生々しい記憶なのだ。

 「アッティカ」に関しては、ジョン・レノンがアルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』('72)の中で「アッティカ・ステイト」という歌で抗議している。

  ♪人間の力の何という無駄遣い 
   人間の命のなんたる浪費
   牢獄の囚人たちを射殺した
   43人の貧しき者が未亡人になった

   アッティカの監獄
   ぼくらはみんなアッティカの仲間だ
   …………………
   さあ一緒に運動に参加しよう
   人権のために立ち上がろう
   …………………

 もうひとつは警察への不信。ルメット監督がアル・パチーノ主演で撮った『セルピコ』('73)に詳しいように、1970年ニューヨーク市警に蔓延していた汚職の腐敗ぶりがニューヨーク・タイムズ誌の告発記事として載った。告発したのは、麻薬捜査官だったセルピコ刑事。1971年には警察内部の人間に重傷を負わされた事件だ。

 ソニーが通りに出るときに必ず一緒に連れられるシルビアが、マスコミから「警察への信頼度は?」と聴かれるのも、モレッティ刑事に引き止められ「皆を見捨てろと言うの?」と救出の手を振りほどいて銀行内に戻るのも、警察への不信感がどこかしらに残っている世相だ。



 性同一障害の男性“妻”レオン(クリス・サランドン)が登場するあたりから、ドラマは深刻な様相を深めていく。実はソニーは同性愛者で、タイトル前に出て来た太った妻とは別に、トランスセクシュアルのレオンと結婚式を挙げており、レオンの性転換手術の費用を工面するのがこの銀行強盗の目的だった。
 70年代になってゲイの権利運動が盛んになってきたとはいえ、偏見は警察官の蔑みの目やマスコミの扱いで判る。

 そして、それまで人道的態度を貫いてきたモレッティ刑事に代わり、冷徹そうなFBI捜査官シェルドン(ジェームス・ブロデリック)が主導権を執るようになって事件の行方は一気に進む。
 犯罪者の心理を見透かすように、優しく近づくシェルドンはソニーに投降を勧める。

 「殺すなら仕事ではなく、心から憎んで殺してくれ」ソニーがシェルドンに言う。

 ソニーの本妻(冒頭に映った太った妻)と愛人レオンと実母の説得も失敗に終わった警察側は、ついにソニーの要求通り国外逃亡用のジェット機を用意せざるを得なくなる。

 「どこの国に行きたい?」とソニーに聞かれたサルは「ワイオミング」と答える。これはジョン・カザールのアドリブだという。サルのパーソナリティがあまり語られないなかで、このシーンは素晴らしい効果を観客に与えている。
 自分一人では生きていけないサルは、無口で孤独な青年。社会に適応できない人間。精神的に追いつめられているのが分る。危険分子だ。FBIが何とかしてくれるという。ソニーは本当は早くに降りたい気持ちだった。が、一途に生か死を考えるサルを裏切ることはできなかった。

 暗黒の部分を抱え屈折した“動”の男をイーストハーレムの最下層で育ったアル・パチーノが役者としてとことん表現し、アル・パチーノとは10代の頃から親友でもあるジョン・カザールが寡黙で不気味な“静”の青年を演じる。
 このふたりのイタリア系アメリカ人が演じる現代アメリカの或る側面は、哀しく悲壮だ。

 ジョン・カザールは1978年に『ディア・ハンター』撮影後に癌で亡くなっている。亡くなった当時はメリル・ストリープと婚約をしており、たった5本の出演作しかない彼はどの作品も素晴らしい存在感を残していてくれる。
 ここでは、ソニーに先だって銀行に入るシーン。爽やかな午後の風を受け長い髪をなびかせて歩くジョン・カザールに、このあとの思い詰めた表情の対比となる色気を漂わせている。

 市警の刑事を演じたチャールズ・ダーニングも、汗だくになり、声を枯らし、アル・パチーノと渡り合う迫真の演技で好演している。

 さてクライマックスは深夜零時過ぎ、人質とともにリムジンで銀行からケネディ空港へ移動する。気の遠くなるような道のり、ジェット機を前にしてサルは射殺され、ソニーは惨めに逮捕される。
 解放され日常に戻った人質たちを、ソニーは虚ろに眺める。その泳いだ眼が長く長く映されるシーンは印象的だ。

 原題の「DOG DAY」とは「真夏の暑い一日」を意味する。邦題の「狼たち」は少し的外れではあるが、誰も傷つけることのなかったソニーとサルに対して残忍な仕打ちをした「狼たち」とは一体誰だったのか、考えさせられる映画である。


「グロリア」*シドニー・ルメット



GLORIA
監督:シドニー・ルメット
脚本:スティーブ・アンティン
撮影:デビッド・ワトキン
音楽:ハワード・ショア
衣装:ドナ・グラナータ
出演:シャロン・ストーン、ジェレミー・ノーザム、ジーン・ルーク・フィゲロア、ジョージ・C・スコット、キャシー・モリアーティ、マイク・スター

☆☆☆ 1998年/アメリカ/107分

    ◇

 名匠シドニー・ルメット監督が、セクシーで知的な美女シャロン・ストーン主演でジョン・カサベテス監督の最高傑作ハードボイルドをリメイクした作品。

 フロリダで3年の刑期を終えたグロリア(シャロン・ストーン)はニューヨークの恋人の元に帰るが、彼女には組織の冷酷な裏切りが待っていた。男たちに銃口を向け、部屋に居合わせた少年ニッキー(ジーン・ルーク・フィゲロア)を人質にして脱出するグロリア。
 少年の父親はマフィアの会計士で、組織の秘密を握るフロッピーディスクを持ち出したことで家族全員が惨殺されていた。父親からディスクを託されたニッキーも彼らに捕まっていたところで、グロリアに少年を連れ去られた組織の連中は血眼になってふたりを追うことになる。
 絶望の渕に始まる奇妙なふたりの逃避行。安ホテルの身を隠した平穏な時も束の間、雑踏のなかでグロリアとはぐれたニッキーは敵の手に落ちてしまった。
 「あの子の命は私が守る」意を決したグロリアは、女友達のダイアン(キャシー・モリアーティ)の協力を得て、組織の大ボスであるルビー(ジョージ・C・スコット)に面会。ニッキーとフロッピーの交換を持ちかける………。

    ◇

 名作・傑作にもどこかしらに不満点や欠点があり、リメイク作品はそれらを補充する解釈を加えたり素材に新しい味付けをしたりする。1980年のオリジナル『グロリア』を、男女逆転で変型リメイクしたのがリュック・ベンソン監督の傑作『レオン』('94)だったが、ルメット監督は基本プロットはそのままに、別の表現で新しい個性を創り出そうとした。

 オリジナルの『グロリア』はこれまでに何度も何度も観ているマイ・フェバリット・ムーヴィーの1本だから、当時、シドニー・ルメットとシャロン・ストーンの組み合わせには大いに期待した映画だったのだが、さすがに初見時、期待した分の反動は大きく、ここ何十年と忘却に曝した作品だった。
 それでも当時の鑑賞ノートを見ると☆は3つだし、初めてDVD化されたときにはソフトを購入しているのだから、まんざらでもなかったのかもしれない。あらためて新鮮な気持ちで観てみると、結構面白く観ることができる。

 映画の冒頭、グロリアがフロリダの刑務所から出所するシーンから始まる。保護観察処分のためフロリダから出ることは再び刑務所に戻ることを意味するのだが、グロリアは恋人と縁を切ることと分け前を貰うためにニューヨークに行かなければならなかった。
 このバックボーンで、グロリアが少年を連れ回すことのリスクと逃亡の時間的リミットが設定されたことになる。これはオリジナルより緊迫感を生んでいる。

 ジーナ・ローランズが演じたオリジナルの“グロリア”は、かつてはマフィアのボスの情婦でありショーガールとして輝いていた女で、今はやさぐれて隠遁生活に入ろうとしていた中年女。そんな彼女が少年を守ることで“おんな”を取り戻していくヒロインだった。それに対して、若くて美人のヒロインにアレンジした本作は、“女の生き方”の重さがまったく異なるものになり、雰囲気がガラリと変わるストーリーになってしまっている。(ラストは大甘)
 しかし逆に、人間不信になった女が無鉄砲な牝猫ぶりを見せつけることで、シャロン・ストーンの輝きが増していくようにも見える。真っ正直に自分の道を築いていく女の姿は美しい。
 大きく胸が開き長いスリットの入ったドレス姿で登場するオープニングで「まるでドラッグ・クイーン(女装したゲイ)ね」と自嘲気味に云うのが面白い。
 今回のグロリアの設定が若いとはいっても、当時のシャロン・ストーンは40歳。ジーナ・ローランズは当時46歳だったのだから、さほど若返ったわけでもなく脂の乗ってきた頃である。

 もうひとり女優に関して記しておくと、本作にはオリジナルにはない女友達が登場する。シャロン“グロリア”ストーンが慕うモデル斡旋業(多分、裏の商売を兼ねている)のダイアンだ。この憧れの存在になっているダイアンを演じるのがキャシー・モリアーティ。彼女はシャロンストーンより2歳年下だが、オリジナルのグロリアのイメージを重ねたくなるくらいの貫禄ある女っぷりだ。
 キャシー・モリアーティは絶世の美女として『レイジングブル』に19歳で出演して、いきなりアカデミー賞助演女優賞にノミネートされた女優。生粋のニューヨークっ子のキャシー・モリアーティの『グロリア』だったら、ジーナ・ローランズに近い完全リメイクになったかもしれない……?


★グロリア*ジョン・カサベテス★


シドニー・ルメット監督、死去

 ニューヨークを舞台に多くの社会派映画を撮ってきた巨匠シドニー・ルメット監督が、4月9日、リンパ腫により亡くなった。

 デビュー作の『十二人の怒れる男』('57)の強烈な社会性は、人間の不条理さを鋭い観察眼で描き切った傑作で、密室における緊張感あふれるサスペンスは、並のミステリーやハードボイルドを寄せ付けない一級のドラマだった。

 1970年代のドキュメンタリー・タッチの社会派作品は、秀作揃いで大好きな作品ばかり。
 アル・パチーノ主演の『セルピコ』と『狼たちの午後』は実話を題材にした強烈な作品で『ネットワーク』も社会派ドラマだったが、『オリエンタル急行殺人事件』や『ウイズ』などの娯楽作品、特に『ウイズ』はミュージカルまで手がける才人ぶりは、まさに職人監督と呼んでいいだろう。

 街の細部を知り尽くしている監督が描く70年代のニューヨークが好きだった。ぼくを大のニューヨーク好きにしてくれた監督のひとりだ。
 とにかく街の息づかいを感じるローケーションは、どんな作品も見応えがあり、駄作とも言われたシャロン・ストーン主演の『グロリア』のリメイクだって、荒廃と陰影の街の姿は見事に映されていた。

 監督最後の作品は『その土曜日、7時58分』('07)。いきなり冒頭でフィリップ・シーモア・ホフマンとマリサ・トメイのセックスシーンを見せ、とても80代の監督が撮ったとは思わせないスタイリッシュな犯罪&家族ドラマの傑作だった。

 享年86。ご冥福をお祈りします。

「悪魔のような女」*ジェレマイア・チェチック


DIABOLIQUE
監督:ジェレマイア・チェチック
原作:ピエール・ボアロー&トマス・ナルスジャック
脚本:ドン・ルース
撮影:ピーター・ジェームス
音楽:ランディ・エーデルマン
出演:シャロン・ストーン、イザベル・アジャーニ、チャズ・パルミンテリ、キャシー・ベイツ

☆☆☆ 1996年/アメリカ/107分

    ◇

 クルーゾー監督の『悪魔のような女』を豪華女優3人でリメイク。ストーリー展開は同じだが、恐怖の度合いはかなり違う作品になっている。

 残酷で暴力的な男ガイ(チャズ・パルミンテリ)は、資産家の妻ミア(イザベル・アジャーニ)のおかげで全寮制の私立男子校の理事の座と多大な財産を手に入れた野心家。元尼僧のミアには優しい男らしさと、ことあるごとに彼女を侮辱する蔑みの両面で翻弄している。
 そしてガイは、この学校の教師ニコル(シャロン・ストーン)とは公然と愛人関係を持っていた。清楚なミアと知的でクールなニコルは正反対のタイプの女だった。
 ニコルは、ガイの暴力的な振る舞いや自己中心的な男のわがままに嫌気がさし、ミアにも同情と庇護の気持ちを抱いているが、彼とのセックスに溺れ離れることができない。
 この歪んだ三角関係を壊したのは女たちだった。
 しかし殺したはずのガイの死体がプールから消え、元刑事の私立探偵シャーリー(キャシー・ベイツ)の登場で、ふたりの関係は思わぬ方向に………。

    ◇

 リメイクには、オリジナルのイメージを保ちつつ、その時代で描けなかった新しいイメージを膨らませることができる。比較などしないで、新鮮な気持ちで観てみると面白いこともある。

 まずは、可憐だが病的な狂気を潜ませるイザベル・アジャーニと、蓮っ葉だが華麗なるシャロン・ストーンの“いい女”の競演を観ることだけでも鮮烈なものがある。
 シャロン・ストーンより年上のイザベル・アジャーニとはいえ、当時40歳を越えているとは思えないカマトトぶりは、つかみ所のない女優の輝きである。そういえば、オリジナル版も清楚なヴェラ・クルーゾーが貫禄のシモーヌ・シニョレより8つも年上だったとは思えないのだ。

 女たちに肩入れもしたくなるほど“下司な男”には、オリジナルのポール・ムーリッスよりチャズ・パルミンテリのイヤラしさが強烈でいい。
 3人目の女として登場するキャシー・ベイツも場をさらってしまう好演。

 女たちがちっとも“悪魔”じゃないと云われれば、不貞とか、情欲とか、同性愛とか、男性上位主義とか全ての存在が“悪魔的な”“悪魔のようなもの”を指しているのだと考えてみればいい。

 さて、ラスト。
 たしかにオリジナルの恐怖の10分間が、まあ何てアッサリしたものに変えたのかと文句も付けたかろう。でも、オリジナルの驚愕のどんでん返しが既に賞味期限切れだし、製作側はホラーで観客を驚かせようとは端から考えてはいまい。だから、もうひと捻りしたわけだ。

 オリジナルのクルーゾー版の方では最後の最後で、聖母のように心優しい妻が夫と愛人を貶めたという見方が想像できる(状況設定に無理があるが)。クルーゾー監督も原作の趣向を大きく変えていたわけで、ひと捻りしたクルーゾー版をもうひと捻りしたことで、本作が原作に近い三角関係になったのも一興ではないか。

 最後の最後でキャシー・ベイツが「こんなゲスな男のために、一生を棒に振りなさんなよ」と言っているような行動と表情は、男につくづく愛想を尽かし友達もいない寂しい中年女からの一撃である。

 女3人の仲間意識は、レズビアンとか暴力的セックスとか50年代のモラルでは表現できなかったことを考えれば、女が男へ引導を渡しやすくなった時代背景として、ラストの改変も納得できるというものだ。

 シャロン・ストーンはこのあと、ジョン・カサベテス監督の傑作ハードボイルド映画『グロリア』('80)のリメイクでも美貌と役者魂を発揮させ、90年代最後のヒロインを見せつけてくれる。

★悪魔のような女*アンリ=ジョルジュ・クルーゾー★
★グロリア*シドニー・ルメット★


「悪魔のような女」*アンリ=ジョルジュ・クルーゾー



LES DIABOLIQUES
監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
原作:ピエール・ボワロー&トマス・ナルスジャック
脚色:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、ジェローム・ジェロミニ
撮影:アルマン・ティラール、ロベール・ジュイヤール
音楽:ジョルジュ・ヴァン・パリス
出演:シモーヌ・シニョレ、ヴェラ・クルーゾー、ポール・ムーリッス、シャルル・ヴァネル

☆☆☆★ 1955年/フランス/116分/B&W

    ◇

 「この映画の結末は、絶対にひとには話さないでください」
 暗転したスクリーンにこの文言を映した最初の映画として、あらゆるスリラー映画のバイブルとなった映画である。ヒチコックはこの作品に嫉妬し、そして徹底的に研究・分析をして『サイコ』('60)を撮りあげたという。


 パリ郊外で寄宿学校を経営しながら教鞭を執る資産家のクリスティーナ(ヴェラ・クルーゾー)は、夫で校長のミシェル(ポール・ムーリッス)の横暴さに悩まされていた。
 ミシェルの愛人でクリスティーナの同僚教師ニコル(シモーヌ・シニョレ)も、ミシェルに暴力を振るわれ憎悪を覚えている。
 歪んだ三角関係が存在するなか、あまりにも利己的で乱暴なミシェルに我慢ができなくなったふたりの女は、共謀してミシェルの殺害を計画する。
 週末、田舎にあるニコルの持ち家にミシェルをおびき出し、睡眠薬で眠らせたあと浴槽でミシェルを溺死させる。翌日、ふたりは死体を寄宿学校のプールに沈め、ミシェルが誤ってプールに落ちて水死したように工作した。
 なかなか死体が浮かんでこないことにイラつくニコルとクリスティーナだったが、プールからミシェルのライターが発見されたことから用務員にプールの水を抜かせる。しかし、空になったプールからは死体が忽然と消えていた。
 行方不明になったミシェルの話題を聞きつけ元刑事(シャルル・ヴァネル)が動きだす一方、ふたりの前には数々の不可解な出来事が起きる……。

    ◇

 クルーゾー監督の前作『恐怖の報酬』('53)は、ジワジワと連鎖していく恐怖がスリリングだった。次から次へと起こる不測の展開に、友情というスパイスを絡めることでサスペンス度を高め、感情移入できる共犯関係による恐怖を味わうことができた。

 本作は、劇中音楽が一切使わずに効果音だけで陰鬱な世界が描かれる。
 常に曇に覆われた空と淀んだプールの水面、水道管から漏れる不快な排水音、部屋に響くタイプライターの規則音、革手袋の擦れる音と影のなかを歩く靴音…………

 病弱なクリスティーナの視点で語られる不安と恐怖が観る者への感情移入となり、光が生み出す暗黒が戦慄を生む演出はモノクロームだからこその恐怖。それはクライマックスにクリスティーナが追いつめられていくシーンで増幅される。

 初見は、とにかく怖かった。ボリス・カーロフの『フランケンシュタイン』やクリストファー・リーの『吸血鬼ドラキュラ』のような恐怖映画をTVで観ていた少年期。ジョージ・A・ロメロもまだいない本格ホラーのない時代に、この映画のラスト数分間は恐怖以外の何ものでもなかった。

 ただしインパクトのある結末も、既に半世紀以上も経つと手垢の付いたトリックとなりミステリーとしての衝撃度は薄い。致し方ないことだが「どんでん返し」を想定して観るにはヌルイかもしれない。この作品は名作と讃えられるが、個人的にはスリラーの古典としての傑作くらいの感じである。それでも、結末を知っていても大胆なカット割で観客にショックを与える『サイコ』と同じように、ショッキングなラストは何度観ても怖い。

 真相が明らかになったあと、いたずら少年モネの言葉にスリラーの衝撃性があり、これこそホラーである。
 真実はなに………。

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   ◆以下、原作の結末に触れます。